内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ファン・ボイ・チャウの切手
2017-03-04 Sat 09:56
 ヴェトナムをご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きょう(4日)、同国中部のフエにある、東遊運動の指導者、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)の記念館をご訪問されるそうです。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ヴェトナム・ファンボイチャウ

 これは、1967年3月24日にヴェトナム共和国(南ヴェトナム、サイゴン政権)が発行した“ヴェトナムの愛国者”の切手のうち、ファン・ボイ・チャウを取り上げた1枚です。

 ファン・ボイ・チャウは、1867年12月26日、フエ生まれ。幼少時から神童の誉れ高く、6歳にして3日で『三字経』を習得し、7歳にして『論語』を読み、13歳にして科挙の前々段階にあたる、府県レベルで実施される“課”に合格しました。

 しかし、フランスによるインドシナの植民地化が進行していく中で、旧来型の四書五経を中心とした勉強には飽き足らなくなり、10代の頃から反仏運動に傾倒。1885年、清仏戦争に敗れた清朝がヴェトナムに対するフランスの保護権を認めたことに対して、阮朝の咸宜帝がフエを脱出し、反仏蜂起を起こすと、ファンもこれに参加します。そして、蜂起がフランス軍によって鎮圧されたことでフランスに対する強い憎しみを持つようになりました。ちなみに、蜂起翌年の1886年、フランスはフエの阮朝宮廷を形式的に残したまま、アンナン、トンキンを保護国とし(南部のコーチシナはフランスの直轄植民地)、1887年にはインドシナ総督府を設置。インドシナの植民地化をほぼ完成させました。

 その後、ファンは1897年に科挙に首席で合格したものの、官職には就かず、祖国再興をめざす勤王運動に参加。1904年には、阮朝の祖・嘉隆帝の血筋をひくクォン・デ(彊柢)を擁立して“維新会”を結成し、1905年初、ヴェトナム独立のための武器支援を求めて、2名の同志とともに出国し、香港、廣州上海、神戸を経由して、1905年初夏、横浜に到着しました。

 ちなみに、1904年2月に日露戦争が勃発すると、ファンは日本の勝利を予言していましたが、多くのヴェトナム人は半信半疑でした。特に、ファンの出国後、1905年5月9日にロシアのバルチック艦隊がカムラン港に寄航すると、その威容に圧倒されたヴェトナムの多くは日本の勝利は絶望的と考えましたが、実際には日本海海戦で日本連合艦隊が圧勝。このため、ファンの声望は一挙に高まることになりました。

 横浜に到着したファンは、戊戌の変で失脚し、亡命中だった清朝・変法運動の指導者、梁啓超を訪ねます。このとき、ファンが訴えたヴェトナムの状況を梁が書き留めたというかたちで出版されたのが『ヴェトナム亡国史』です。反仏武装闘争の計画についてアドヴァイスを求めたファンに対して、梁は日本政府に武器の援助を求めるよりも、独立のための人材育成が急務であると説得。さらに、ファンは梁の紹介で大隈重信、犬養毅らとも面談し、彼らからも同様の意見を得たことに加え、日本の社会を実地に観察したことで、性急な武装蜂起よりも、まずは人材の育成が重要であることを確信し、いったん、帰国しました。

 帰国したファンは、3人の学生を伴い日本に再入国し、さらに6人の学生を呼び寄せ、犬養毅の紹介で東京振武学校と東京同文書院に入学させます。これが、「日本に学べ」という意味の“ドンズー運動”の始まりで、以後、200名を超えるヴェトナム人青年が日本で軍事教練を含む質の高い教育を受けました。その中には、維新会の長であったクォン・デも含まれていました。また、ヴェトナムでは、ファンの呼びかけに応じて、慶応義塾をモデルに“東京義塾”が作られ、愛国青年の育成が始まります。
 
 これに対して、フランスは1907年、日仏協約を調印。同協約では、フランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、日本を拠点とした独立運動を取り締まることを規定していました。フランスはこれを根拠に、日本政府に圧力をかけ、1909年、ヴェトナム人留学生を日本から退去させます。さらに、ヴェトナムの東京義塾も閉鎖を命じられ、責任者は逮捕されました。

 ファンも日本からの退去を命じられ、失意の中、香港、バンコク、シンガポールなどで活動。1911年に中国で辛亥革命がおこると、皇帝の復権から、民族の独立と民主国家の建設に目標を変更し、それまでの維新会を解散。新たに、「仏賊を駆逐し、ヴェトナムを回復して、共和制のヴェトナム民国を樹立すること」を目標とするヴェトナム光復会を組織しました。その後、ヴェトナム光復会は、廣州を拠点に党員をヴェトナムに派遣して植民地政府要員の殺害を狙ったものの、ほとんど失敗。1914年にはファン自身も逮捕され、1917年まで廣州で獄中生活を送りました。

 出獄後のファンは、廣州を拠点に、日本を再訪したり、1920年には北京でソヴィエト代表団と接触したりした後、1924年には中国国民党をモデルにヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組するなどの活動を行っていましたが、1925年、廣州でフランス官憲に再逮捕され、ハノイでの裁判で終身禁固の判決を受け、入獄しました。これに対して、ヴェトナムではファンの釈放を求める大規模なデモが発生したため、フランス当局は彼を釈放したものの、以後、フエ郊外でファンを監禁し続けました。ちなみに、ファンが亡くなったのは1940年10月25日のことでしたが、その直前の9月23日、日本軍は北部仏印に進駐しています。


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