内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(49)
2017-06-28 Wed 10:20
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第3号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・王室御座船シリーズ(75サタン)

 これは、1975年11月18日にタイで発行された“王室御座船”シリーズのうち、供奉船の“スックリープ・クロン・ムアン”を取り上げた75サタン切手です。

 王室御座船は、王室の特別な行事に際してのみ使用される豪華な装飾船で、その歴史はスコータイ王朝(1463年滅亡)の時代に、カオパンサー(入安居)の蝋燭点灯式やローイ・クラトーンの燈籠流し等に際して、国王の行幸船として用いられたのが始まりだとされています。

 アユッタヤー王朝時代には、首都が河川と運河に囲まれていたこともあり、王の権威と権力を可視化するための行事として御座船のパレードが行われたほか、ナーラーイ王(在位1633-88年)の時代、フランス国王ルイ14世の使節団をもてなすため、200艘のロングボートによるパレードも行われました。さらに、ボーロマコート王(在位1733-58)の時代には、御座船パレードの際に使用される楽曲も整えられています。なお、当時の御座船はいずれも平底船でした。

 アユッタヤー王朝滅亡の際、王室の御座船は戦乱により焼失しましたが、チャクリー王朝の創始者、ラーマ1世は、1782年にバンコクに遷都した後、アユッタヤー王朝時代以来の御座船の伝統を再興しただけでなく、新しい御座船の建設を命じました。なかでも、タイの代表的な木材であるチークの1本材を削りだして作られた長さ50mの船“シー・スーパンナホーン”は、船首に聖鳥“ホン(ブラフマー神の乗り物とされる金の白鳥)”の装飾が施されており、王室御座船の最高傑作として、王専用の船として用いられていました。

 ちなみに、シー・スーパンナホーンは後に老朽化が進んだため、ラーマ6世の時代に、これを模して建造されたのが、現在のタイの御座船を代表する名船として知られる“スリ・スーパンナホーン”です。

 ラーマ4世の時代になると、御座船はトートカティンの儀式での船渡りにほぼ使用が限定されるようになりました。トートカティンは、雨季の終わりを祝うオーク・パンサー(毎年、陰暦11月の満月の日)の日に僧侶に僧衣を贈呈する儀式のことで、バンコクでは国王みずからが御座船に乗ってワット・アルンに出向き、僧たちに僧衣を下賜しています。

 チャクリー王朝の成立後も王室御座船とパレードの習慣は継承されていましたが、1932年6月に立憲革命が起こり、立憲君主制に移行すると、御座船の管理は王室とタイ海軍が行うことになり、バンコク・ノーイのドックがその保管場所になりました。バンコク・ノーイは、大東亜戦争(タイの歴史用語としては、第二次大戦は大東亜戦争と呼ばれています)中、連合軍の空襲を受け、御座船も大きな被害を受けたため、1947年、芸術局が御座船の修復を担当。芸術局は、その後も引き続き修復された御座船の管理を行なっています。

 なお、大東亜戦争後、王室によるトートカティンの船渡りは再開されましたが、文化財としての御座船を保護するため、現在、御座船の使用は王族の重要な行事に限定されています。また、1972年には、御座船のドックは芸術局所属の王室御座船国立博物館となり、一般公開されています。

 御座船のパレードでは、4艘の王室御座船を中心に52艘の供奉船が全長1.2Km・幅90mの隊列を組み、総勢2082人の漕手によって、ワースグリー桟橋からワット・アルン桟橋までの4.5 Kmを進んで行きます。今回ご紹介の切手を含む“王室御座船シリーズ”の切手の背景には、いずれもワット・アルンのシルエットが描かれていますが、これは、トートカティンの船渡りを含め、御座船の運行経路を踏まえたものです。なお、国王が実際に乗り込む御座船では、国王は船体中央の船室内に着座し、黄金と赤の櫂を持つ漕手が総勢50名、舵手と航海士が各2名、その他船尾信号旗手・漕手監督・王座天蓋支持者が伺候することになっています。

 今回ご紹介の75サタン切手に取り上げられているのは、『ラーマキエン物語』に登場する猿族の王、将の像を船首に掲げるクラビー型の供奉船のうち、猿王スックリープの像を掲げる“スックリープ・クロン・ムアン”です。

 『ラーマキエン物語』によると、サケート国の君主であった仙人のコドムは、火の中から生まれた美女、アッチャナーを妻とし、2人の間にはサワーハという娘が生まれました。

 その後、コドムの留守中、インドラ神は一人きりになったアッチャナーを見初めて彼女と関係を結びます。アッチャナーはインドラ神の子を身籠り、10カ月後、エメラルド色の男の子が生まれました。コドムはこの子をインドラ神の子とは知らずにサワーハよりもかわいがりました。

 別の日、コドムが留守の間に、西の空を照り付けていた太陽神を見たアッチャナーは彼に恋をし、10ヶ月後、太陽神のように赤い男の子が生まれます。

 当初、コドムはサワーハよりも2人の男の子をかわいがっていましたが、サワーハから男の子の父親が自分ではないと聞かされ激怒。3人の子を川に突き落とし、自分の子であれば泳いで戻ってこられるけれども、そうでなければサルになってしまうよう呪いをかけます。その結果、サワーハは戻ってきましたが、2人の男の子はサルになり、森の中に逃げ込みました。

 これを見たインドラ神と太陽神は、サルとなった2人を不憫に思い、2人のためにキートキンの国を作ってやります。そして、ヴシュヌ神が鬼を退治するその日まで、その国を治めるようにインドラ神の子をパーリー、太陽神の子をスックリープと名付け、兄のパーリーを国王に、弟のスックリープを副王としました。ちなみに、2人に軍師として仕えたのが白猿の将軍、ハヌマーンです。

 さて、あるとき、パーリーとスックリープは悪鬼と戦い、追い詰められた悪鬼は洞窟に逃げ込みました。パーリーは弟のスックリープに洞窟の入口で見張りをさせ、単身、敵を追って洞窟の中に入っていきましたが、洞窟内は複雑に入り組んでいて、悪鬼を探し出して討伐する間に1年が経ってしまいました。

 この間、スックリープは、パーリーが戻ってこなかったため、兄が悪鬼との戦いで戦死したと思い、悪鬼が洞窟から出てこないように入り口をふさいで都に戻り、重臣たちによって王として推戴されます。

 ところが、悪鬼を倒して洞窟の入口に戻ってきたパーリーは入口がふさがれているためになかなか外に出られませんでした。苦心の末にようやく洞窟の外に出たパーリーは、スックリープが王となっていることを知り、激怒。王位を簒奪したスックリープを追放し、さらに追手を差し向けます。

 こうしてパーリーとスックリープは互いに敵味方に分かれて戦うことになりましたが、最終的に、ラーマ王子の援助を受けたスックリープがパーリーを打ち負かします。なお、パーリーはラーマの放った矢によって落命しますが、死の間際、ようやく、スックリープに対して抱いていた猜疑心から解放されました。

 なお、タイの王室御座船については、拙著『タイ三都周郵記』でも関連の切手や絵葉書をご紹介しておりますので、機会がありましたら、そちらも併せてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
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