内藤陽介 Yosuke NAITO
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 本日、展示解説やります
2017-07-16 Sun 05:27
 昨日(15日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展2017(以下、全日展)がスタートしました。本日(16日)は僕も15:30から、チャンピオンクラスに出品中の「香港の歴史」について、展示解説をやります。というわけで、全日展と併催のオーストラリア切手展とも絡めて、今回の出品作品の中から、オーストラリア切手が貼られたマテリアルをご紹介します。

      オーストラリア・香港宛返戻

 これは、日英開戦日の1941年12月8日、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州のドラモインから香港・九龍の金巴利道(キンバリー・ロード)宛に差し出されたものの、戦争により郵便物の取り扱いが停止されたため、その旨の事情説明の印を押して差出人に返戻された郵便物です。
 
 1939年の欧州大戦勃発を受けて、1940年6月、英国の香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じます。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したためです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まります。

 すなわち、市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スターフェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられました。また、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われています。

 もっとも、大英帝国の宰相チャーチルは、日本との戦争が始まった場合には香港の防衛は絶望的で、日本の敗戦以外に香港を奪還することは不可能だとの見通しに立っていました。このため、1941年初頭の段階では、英国の香港駐留軍の内訳は、本国から派遣された歩兵二個大隊とインド軍二個大隊を中心にごくわずかな砲兵隊、自動車部隊、義勇軍、わずかな小型戦闘艦艇、飛行艇二機、三隻の水雷艇(ただし、いずれも肝心の水雷は装備していません)のみという脆弱なものでした。また、香港の守備隊を増強することはかえって日本軍を刺激して危険であるという判断さえなされていました。

 さらに、1940年から1941年にかけての香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れていました。じっさい、香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 こうした楽観的な世論の背景には、日中戦争の長期化に伴う余得で、香港が空前の経済的活況を呈していたという事情がありました。

 すなわち、1931年には85万弱といわれていた香港の人口は、いわゆる日中戦争の勃発した1937年には100万を越え、その後、上海廣州からの難民が大量に流入したこともあって、1941年の時点では175万人にまで膨れ上がっていました。その中には富裕な実業家も少なからず含まれており、香港には、日本軍の占領下で陸の孤島と化した上海に代わる中国経済の拠点という地位が突如として転がり込んできたわけです。

 こうした楽観的な空気を反映して、香港駐留のインド軍司令官、クリストファー・マルトビーは、中国=香港間の国境から英国の防御線である醉酒灣防線までは12マイルもあり、国境の守備隊が九龍に撤退する時間は十分に稼げるし、シンガポールから援軍が到着するまで守備隊は持ちこたえることが可能であるとの見通しを持っていました。

 強気のマルトビーに引きずられるかたちで、本国のチャーチルも、それなりに香港の軍備を増強すれば、香港が日本軍の進撃を食い止める防波堤として機能し、日本軍に大きな打撃を与えることも可能なのではないかと考えるようになります。

 こうして、カナダから旅団司令部、通信中隊、歩兵2個大隊が派遣され、1941年11月16日、香港に到着。英領バルバドスから赴任してきたばかりの新総督マーク・ヤングの下に合計1万2000名からなる香港防衛軍が編成されました。しかし、カナダからの増援部隊の兵士は、ほとんどがフランス語圏の出身であったため、既存の香港駐留軍との連携が上手く取れず、そのうえ、彼らには実戦経験もほとんどなく、とうてい、実戦経験の豊かな日本軍に太刀打ちできるようなレベルではありませんでした。

 これに対して、米英との開戦を決意した日本軍は着々と香港攻略の準備を進め、カナダ軍が香港に到着する10日前の11月6日には大本営陸軍部が「香港攻略作戦要領」を完成させ、3970人の兵員の配置を完了しています。

 日英開戦2週間前の11月25日、香港政庁は市民に対して、香港島と九龍市街地に数箇所の避難場所を設け、そこに食糧を備蓄していることを公表。あわせて、住民の居住地ごとに、日本軍の攻撃が始まった場合の避難先も指定されています。在留日本人の帰国も相次ぎ、開戦3日前の12月5日には日本語新聞も休刊になりました。

 こうして、日英開戦に向けての緊張が一挙に高まっていく一方で、香港の市街地では、依然、戦争は他人事といった空気も濃厚で、開戦前日、12月7日の新聞にはクリスマス・ギフトの広告があふれ、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)はクリスマスや新年のためのディナーやコンサート、宿泊の予約を募っています。

 一方、国境を越えた深圳河一帯には日本陸軍の第38師団が集結していた。彼らが暗号電「ハナサク ハナサク」を受信し、深圳河をこえて進軍を開始するのは、香港の人々がまだ深い眠りの中にあった12月8日午前3時51分のことでした。その後、同月25日、香港の英軍は降伏し、香港における日本占領時代がスタートします。これに伴い、1945年の終戦まで香港と海外との通信も遮断され、香港は国際社会から物理的に孤立することになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

* 昨日、アクセスカウンターが181万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。また、会期中、16日(日)15:30~、展示解説も行いますので、皆様よろしくお願いします。


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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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