内藤陽介 Yosuke NAITO
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 インドはチベットと国境を接する
2018-01-12 Fri 23:27
 ウェブサイト上で台湾とチベットを“国”として表記していた米・デルタ航空は、中国の圧力に屈して、きょう(12日)、謝罪に追い込まれ、チベットについては0800GMT(日本時間午後5時)時点で早々にウェブサイトから削除しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・国境警備(2012)

 これは、2012年にインドが発行した“インド=チベット国境警備警察”の切手です。中国との国境ではなく、あくまでも“チベットとの国境”としているのがミソです。

 チベットと中国中央政府との「国交」は唐代にまでさかのぼることができますが、宗主国と保護国という両者の関係が確立されたのは17世紀中葉の清朝初期のことです。その後、清朝は、チベットに駐蔵大臣を派遣し、チベットの財政・外交・軍事などに強い影響力を行使するようになりました。

 もっとも、この段階では、チベット政府の独自性も確保されており、両者は国境の確定もあいまいなまま、共存する状態にあったといえます。そもそも、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでしたから、それも当然のことと言えましょう。

 しかし、こうした状況は、1858年にインドを植民地化した英国が中印国境地域に侵食していくことで、変容を迫られます。この結果、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって、清朝と英国との対立が生じましたが、両者の対立は、1907年のシムラ会議により、チベットにおける清朝の主権が確認されたことで、いちおう決着しました。ただし、この間、当事者であるチベットの意向が真剣に考慮されることはありませんでした。

 ところで、1911年の辛亥革命で清朝を打倒した孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になり、チベットでは貨幣や切手も独自のモノが発行されました。現在のチベット亡命政府は、このことを、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして挙げています。

 1947年、英領インド帝国が解体され、インドとパキスタンが分離独立すると、新生インド政府はラサの英領インド外交部を継承し、チベット−英国間の条約も継承されます。インドは、チベットを“国”として認め、チベット外務省に対して「インド政府は、今後新たな協定を結ばない限り現状の関係を維持したい、という貴国の意向を歓迎いたします。インド政府が英国政府から継承した条約関係につきましては、他の国もすべて、そのまま継承していただいております」との書簡を送っています。

 ところが、1951年4月、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐。同年5月23日、中国はチベットに対して「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)を押し付け、チベットの独立を奪いました。

 これに対して、チベットでは1956年以降、カムやアムド地方での武装闘争が始まります。抵抗運動を何とか抑え込みたい中国側はチベット東部には人民解放軍を増派するだけでなく、チベットの村や僧院に対して制裁攻撃を実施。人民解放軍の司令官はポタラ宮ダライ・ラマ14世を攻撃するとの恫喝も行っていました。

 こうした状況の中で、1959年3月1日、中国側がダライ・ラマを観劇に招待。会合前日の3月9日、人民解放軍陸軍の将校たちは、ダライ・ラマの観劇に際してはボディガードを同行させないことや、ダライ・ラマ14世が宮殿から会見場所の人民解放軍駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求しましたが、中国がダライ・ラマの監禁ないしは誘拐をたくらんでいると察知したチベットの人々は、翌10日、ダライ・ラマが宮殿から連れ出されるのを防ごうと宮殿を取り囲みました。

 事態が緊迫する中で、3月12日、チベットの人々は独立を宣言。ラサの通りにはバリケードが築かれるとともに、インド領事に対してもチベット支援の訴えが行われました。そして、3月17日、ついにダライ・ラマの宮殿の近くに2発の砲弾が着弾したことで、ダライ・ラマは亡命を決断するのです。

 一連の混乱の中で、チベット亡命政府の推定値によると、およそ8万6000人のチベット人が亡くなり、ノルブリンカ宮殿には、約800発の砲弾が打ち込まれました。また、ラサの三大寺院であるサラ、ガンデン、デプンは砲撃によって深刻な損傷を受け、ラサ市周辺の僧院や寺院は略奪もしくは徹底的に破壊されました。ラサに残ったダライ・ラマのボディガードたちは、数千人の僧侶とともに処刑されています。

 その後も チベットでは、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていますが、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、絶望したチベット人による抗議の焼身自殺が相次いでいることに対して、国際社会が厳しく指弾しているのは周知のとおりです。

 現在、中国との関係やビジネス上の利益を考えて、こうした状況を見て見ぬふりをする国や企業は多く、今回、中国側の理不尽な要求に唯々諾々と従い、謝罪までしたデルタ航空はその一例でしかありません。

 それだけに、チベット亡命政府の受け入れ先として、今回ご紹介の切手では、あえて“インド=中国国境”ではなく、“インド=チベット国境”との表記を使ったインドの英断は高く評価されるべきものといえましょう。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

 1月11日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第14回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、2月8日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、1月11日放送分につきましては、1月18日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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