内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(53)
2018-03-14 Wed 00:24
 ★★★ 緊急告知!★★★

 あす(15日・木)15:10頃~ NHKラジオ第1放送の「NHKごごラジ!パイロット」の「マニア的電話座談会」のコーナーに、内藤が電話出演します。テーマ(予定)は「好きなことを続けるためのマイルール」です。よろしかったら、ぜひお聴きください。
 なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第52巻第1号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・チャクリー宮殿(1976)  

 これは、1976年12月5日、国王ラーマ9世の誕生日にあわせて発行された宮殿シリーズのうち、チャクリー・マハー・プラーサート宮殿(チャクリー宮殿)を取り上げた2バーツ切手です。ついでですので、2013年に撮影した宮殿の実物の写真も下に貼っておきます。

      バンコク・チャクリー宮殿(2013実物)

 1976年はラーマ9世の即位30周年にあたっていましたが、そのことを直接記念する切手は発行されませんでした。ただし、おそらくその代替として、同年の国王誕生日にあたる12月5日、王宮の宮殿を題材とした4種セットの切手(宮殿シリーズ)が発行されています。

 1973年の10月14日事件以降、民主化が進行していく中で、石油危機とヴェトナム戦争終結による軍需景気の終焉により経済状況は悪化。労働組合の抗議活動によってモムラーチャウォン、セーニー・プラーモート連立政権が譲歩を迫られると、保守派や軍部は政府の弱腰を批判し、それを学生らが“民主主義の危機”と糾弾して集会を呼びかけるなど、情勢は混沌としていました。

 また、1975年にはヴェトナム戦争の終結からわずか7ヶ月余の間に、インドシナ三国が相次いで共産化します。これを受けて、タイ社会には、米軍がヴェトナム戦争に介入した大義名分、共産化ドミノ理論は“正しかった”のであり、共産化の波がタイにも押し寄せるのではないかとの不安が広がり、急進的な民主化にはブレーキをかけるべきとの空気が充満。1976年の総選挙では保守派が前年の選挙を大幅に上回って勝利しました。

 こうした中で、総選挙後の議会混乱から軍事クーデターが噂されるようになると、タイ全国学生センター(NSTC)執行部は“民主主義擁護”を掲げ、政府の経済対策強化、日本製品不買運動(貿易赤字対策)、タイ駐留米軍への抗議などの集会を頻繁に開催し、労組活動家や左派系市民を動員しましたが、穏健派の中産階級は彼らを支持せず、その結果、孤立した左派勢力はますます先鋭化していきます。

 一方、左派勢力の伸長に対して、国内治安維持部隊(1965年に発足のコミュニスト制圧部隊が、1973年の政変を経て改組された組織)が反共準軍事組織の“クラティンデーン(赤い野牛)”を組織したほか、1974年10月には「共産主義者を殺すことは仏法にかなう」と主張するキティウッドが“ナワポン(9つの新しい力)”を結成。さらに、1975年には、王室の援助賛同の下、農村部の住民を組織してビレッジ・スカウトが結成されました。ビレッジ・スカウトは、警察などの活動を支援する自警団組織で、王室から下賜された制服とネッカチーフを着用し、農村部での左派活動家のオルグ活動を阻止しています。

 クラティンデーンは、1975年8月、学生運動の拠点だったタンマサート大学を襲撃したほか、1976年2月15日には新勢力党本部を爆破。さらに、3月3日にはラーマ6世技術学校爆破事件、6月10日にはNSTC機関紙印刷所爆破事件などが右派組織によって起きています。

 1976年8月16日、1973年の政変で亡命したプラパート・チャルサティエン元副首相が帰国すると、翌17日、これに反対するNSTCは王宮前広場に約1万人を動員して、元副首相の断罪を求める集会を開催。これに対して、8月21日、右派活動家がタンマサート大学構内で学生を襲撃し、2名が死亡、36人が負傷した。プラパートは国王の説諭を受け、翌22日に台北に出国しました。

 一方、おなじく1973年の政変後、米国に亡命していたタノーム・キッティカチョーン元首相はシンガポールに移り、「高齢の父親の看病と、母親の付き添い介助」を理由にタイ政府に対して帰国を申請。プラパートの先例から治安の悪化を懸念する政府はこれを拒絶しましたが、タノームはシンガポール市内のタイ系仏教寺院で出家し、9月19日、僧侶として強引に帰国します。

 これに対して、9月25日、バンコク近郊のナコーンパトムでタノームの帰国に抗議するポスターを貼っていた地方配電公社の労組活動家2人が殺害される事件が発生。10月4日、シースック警察局長は現職警察官の事件への関与を認めたため、同日、NSTCはタンマサート大学のサッカー場で抗議集会を開催。その際、労組活動家殺害事件を題材とした寸劇が上演され、その模様は新聞に写真つきで報じられました。

 すると、翌5日、クラティンデーンとナワポンの活動家は、新聞に掲載された犯人役がワチラーロンコーン王子に似ているのは王室侮辱であるとして、大学を包囲して抗議活動を展開。学生側は引き続き徹夜で集会を続けていましたが、6日朝、国境警備警察と右派集団が構内に突入し、二方向から武装と火器で集会参加者を攻撃し、多数の犠牲者が発生。午前11時頃までに、少なくとも46名が死亡、167名が負傷し、集会参加者の約1000人は反乱分子として警察に連行されました。

 事件後の6日午後6時、海軍大将で国防相のサガット・チャローユーは、①王制を破壊し、国家を転覆させようとする共産主義者がヴェトナム人と結託して警察を攻撃した、②一部の閣僚、政治家やマスコミ機関が共産主義者を支援して混乱を拡大させたが現政府はこの危機に対処する能力がない、として軍事クーデターを宣言し、セーニー・プラーモート政権に代わる国家統治改革評議会を設置し、新首相として元最高裁判所判事のターニン・クライウィチエンを擁立します。

 いわゆる“血の水曜日事件”です。

 事件後、社会的な安定の回復を急務としていた改革評議会は、国民統合の象徴としての王室の権威を最大限に活用します。その意味では、今回ご紹介の切手を含む“宮殿シリーズ”の切手もまた、事件の記憶も生々しい12月5日の国王誕生日にあわせて発行され、結果的に政権を支えるプロパガンダの役割を果たすことになったと言ってよいでしょう。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられているチャクリー宮殿は、バンコクの王宮の敷地のほぼ中央に位置しており、同宮殿から南の方向へ付属の宮殿群が展開するレイアウトになっています。

 もともと、チャクリー宮殿の周辺は、ラーマ5世が幼少期を過ごした場所でした。当時の王室の慣例では、即位後の王は敷地東側のプラー・マハー・モンティエンに生活の場を移すのが慣例となっていましたが、即位後のラーマ5世は、プラー・マハー・モンティエンに移るよりも、それまで住んでいた“東宮御所”の増築を決断。1876年5月7日、シンガポールの建築家、ジョン・クラニッチの設計・監督の下、チャクリー宮殿の建設に着工し、1882年に宮殿は完成しました。(下の画像は、2013年に撮影した宮殿の写真です)
      
 当初、ラーマ5世は、チャクリー宮殿を純然たるルネサンス様式の洋風建築として建設する意向でしたが、クラニッチから、タイの伝統的な建築様式を加えたほうがよいとの進言を受け、屋根の部分にタイ風を取り入れた折衷様式の宮殿に仕上がりました。現在は王族の納骨堂となっており、軒下は武器博物館として、一般に公開されています。

 なお、 チャクリー宮殿を含むバンコク市内の宮殿については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろご紹介していおりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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