内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米大使館、きょうエルサレムへ
2018-05-14 Mon 01:44
 米国は、昨年12月にトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことを受け、西暦でのイスラエル建国70周年にあたるきょう(14日)、在イスラエル大使館をテルアヴィヴからエルサレムに移転します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・トルーマン(1975)

 これは、1975年、米国がイスラエルを国家承認した際の大統領としてのハリー・トルーマンを讃えてイスラエルが発行した切手です。

 トルーマンはカンザス・シティのビジネス・カレッジを卒業後、カンザス・シティのナショナル・バンク・オブ・コマースに窓口係として就職したのが社会人としてのキャリアのスタートでした。1905年、彼は、リトアニア出身のユダヤ人移民の子で、地元の洋品店で働いていたエドワード・ヤコブセンと知り合いになります。1917年に米国が第一次大戦に参戦すると、トルーマンとヤコブセンは徴兵され、ともに第129砲兵隊の酒保係に配属されました。“戦友”となった二人は大いに意気投合し、退役後、共同事業を始めます。ユダヤ人に対する差別が根強かった当時の米国では、トルーマンのように、ユダヤ人のヤコブセンとビジネス・パートナーの関係になるWASP(プロテスタントのアングロ・サクソン)は例外的な存在でした。

 その後、2人の共同事業はすぐに破綻しましたが、個人的な友情は生涯続き、1945年4月、フランクリン・ローズヴェルトの死により、トルーマンが大統領に就任すると、ヤコブセンはホワイトハウスに出入りできる例外的な民間人の一人となりました。

 こうしたヤコブセンとの個人的な友情関係に加え、上院議員として実績を積み重ね、副大統領、そして大統領になった老練な政治家としてのトルーマンは、政治的な打算から、ローズヴェルトと比べると、明らかに親ユダヤ的な態度を取っていました。

 すなわち、パレスチナでのアラブとイスラエルの対立に関して、米国は直接の当事者ではないとの認識から、ローズヴェルトは、アラブ諸国の指導者に対して、「米国としては、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしない」と約束しており、トルーマンも基本的にはこの方針を継承することを表明していました。その一方で、トルーマンは側近との会話では「米国の有権者のうち、いったい、アラブ系はどのくらいいるのかね」と述べており、シオニストへの支持を隠そうとしませんでした。

 さらに、ドイツの敗北により、アウシュヴィッツをはじめ強制収容所の悲惨な実態が白日の下にさらされるようになると、戦勝国の大義を示すためにも、米国ではユダヤ人犠牲者の救済が重要な課題と見なされるようになりました。

 かくして、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住を制限する政策(1939年のマクドナルド白書で決定)を解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、英国首相アトリー宛の書簡で要請します。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立される。委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめました。

 しかし、報告書発表の直前、またしても、シオニスト過激派により英国人兵士6人が殺害されるテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示します。英国のパレスチナ当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものでした。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。むしろ、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重なパレスチナ当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどりました。

 この結果、シオニスト過激派の反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合(以下、国連)に問題の解決を一任すると一方的に宣言。

 これを受けて、同年5月、国連にパレスチナ問題特別委員会が設立され、8月31日、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。この分割案は、ユダヤ人国家の創設に同情的であった米国のみならず、国内のユダヤ人をパレスチナへ入植させることで中東地域に影響力を扶植しようと考えていたソ連の賛成もあり、同年11月29日、国連決議第181号として採択されました。

 以後、これを不満とするアラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦に突入。しかし、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英国人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すことになりました。

 これに対して、1948年2月、エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラクの六ヶ国がカイロで会議を開き、パレスチナでのユダヤ人国家の建設阻止の決議を採択。義勇兵の派遣を決定。一方、同年3月、シオニストたちはテルアヴィヴにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、新国家樹立に向けての具体的に動き始めました。

 これとあわせて、米国では在米シオニストの意を受けたヤコブセンの説得でトルーマンがハイム・ヴァイツマン(イスラエル建国後の初代大統領)と会見。トルーマンは、①ユダヤ人国家建設のために尽力すること、②新国家建国の暁にはそれを直ちに承認することをヴァイツマンに密約します。

 パレスチナでの内戦が激化する中で、英国の委任統治が終了する前日の1949年5月14日、テルアヴィヴの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」とするユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。これを受けて、同日、米国のトルーマン政権は主要国の中で最初にイスラエルを承認し、現在に至る米国=イスラエル関係がスタートしました。

 なお、イスラエル建国前後の状況については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 


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