内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ドバイでの健闘を称えて
2006-11-21 Tue 01:09
 相互リンクをお願いしているc_breakerさんのブログ、cbreakerの切手収集ダイアリーによると、今月13日~16日にドバイで開催されていたアジア国際切手展で、井上和幸さんの朝鮮郵便史のコレクションが金賞+最高賞を受賞されたほか、日本人出品者の方々が好成績を収められたとか。皆様、おめでとうございました。こういう景気の良いニュースはいつ聞いても嬉しいものです。

 というわけで、今日は、出品された皆さんに敬意を表し、切手展の会場となったドバイに絡めて、こんなマテリアルを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ドバイ初期のカバー

 これは、1913年9月17日、ドバイからボンベイ宛に差し出されたカバー(封筒)です。当時のこの地域のカバーの通例として、切手は封蝋代わりに使われているため、何も書かれていない裏面に切手が一枚だけ貼られる結果となり、カバーの余白が目立ってしまうのが、ちょっと格好悪くて残念です。ちなみに、切手と消印の部分を拡大すると、こんな感じになります。(画像の向きは、消印が読みやすいように回転させています)

消印部分の拡大画像

 ホルムズ海峡から内側のペルシァ湾岸地域は、古来、海賊の出没する地域として知られていました。18世紀以降、イギリスのインド進出が本格化し、東インド会社がこの地域の貿易を独占するようになると、イギリスはインドへのシーレーン確保のため、マスカットの首長と結んで本格的な海賊討伐に乗り出します。その結果、1820年、イギリスとこの地域の首長たちの間に休戦条約が結ばれ、イギリスは、彼らを独立国として承認する代わりに(休戦協定=truceに基づいて独立を認められた国々であるため、休戦協定諸国=Trucial Statesと呼ばれる)、マスカットが所有していたザンジバル諸島などを支配下に置いたほか、この地域に監視所と燃料補給施設を設置。さらに、1891~92年にかけて、イギリスは各首長国と排他的協定を結んで保護下に入れ、ペルシァ湾岸におけるプレゼンスを確立しました。

 そうした首長国の一つであったドバイでは、マクトゥム家の支配の下、住民の定住化がはかられ、交易と真珠産業の拠点として発展。さらに、もともと天然の良港であったことに加え、1902年に対岸のペルシァ政府が高関税政策を採用すると、高関税を嫌ったペルシァ系やインド系の商人たちがこの地に集まるようになり、ドバイは湾岸地域の貨物の集散地として急速に発展し、ドバイの人口は一挙に数千人規模に膨らみます。

 こうしたことから、1909年8月、英領インド郵政の管轄の下、休戦協定諸国における最初の郵便局がドバイに設置されます。今回のカバーは、そうしたドバイ局の1913年のカバーで、消印の表示は“DUBAI PERSIAN GULF”となっています。貼られている切手は、無加刷の英領インド切手です。本音をいうと、もっと初期の1909年か1910年のカバーが欲しいところなのですが、そのクラスになるとオークションにも滅多に出てきませんので、とりあえず、僕の懐具合では、まぁ1913年のモノでも我慢するしかないでしょう。

 ドバイでは1947年にインド・パキスタンが分離独立するまでは英領インド切手が使われていましたが、その後、この地域で使用される切手は、パキスタン切手→イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手→休戦協定諸国切手(正刷)ドバイ切手→UAE(アラブ首長国連邦)切手と、めまぐるしい変遷をたどっており、郵便史的にもいろいろと面白いネタがあって、真面目に取り組むと結構楽しめます。

 なお、ドバイを含む“アラブ土侯国”についての郵便史的な事情については、かつて拙著『中東の誕生』でも1章を設けて概観してみたことがあるので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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