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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 スポーツの日
2020-07-24 Fri 00:06
 きょう(24日)は“スポーツの日(ことしから体育の日を改称)”です。もともとは10月の第2月曜日だったところ、今年(2020年)に限って東京五輪の開会式の予定日に合わせて日にちを移動したものの、肝心の五輪そのものが延期となってしまったため妙な感じですが、とりあえず、1964年の東京五輪の切手の中からこの1枚を持ってきました。

      韓国・東京五輪(ランナー)

 これは、1964年10月10日に韓国が発行した東京五輪の記念切手です。

 大韓民国成立以前の1948年7月に開幕したロンドン五輪代表を派遣して以来、南朝鮮=韓国は、朝鮮戦争中の1952年冬季のオスロ大会を除き、1960年まで夏・冬のすべての大会(1952年夏季のヘルシンキ大会を含む)に選手団を派遣してきました。

 これに対して、北朝鮮は、自分たちこそが朝鮮半島の正統政府であり、韓国が出場する大会には参加すべきではないとの大義名分や、朝鮮戦争とその後の戦後復興という国内事情などもあって、1956年夏季のメルボルン大会までは、ほとんど、五輪に対して関心を示していませんでした。

 ところが、メルボルン五輪終了後の1957年、北朝鮮は、韓国に対して、次回(1960年)のローマ五輪に合同選手団による参加を呼びかけます。この提案は、韓国側の拒絶により実現しませんでしたが、ローマ五輪終了後の1962年7月、北朝鮮の五輪委員会は1964年の東京五輪への南北単一チームによる参加を再び提案。これを受けて、1963年5月、南北間で合同選手団の構成問題についての第一回実務者協議が行われました。このときの協議では、合同選手団の名称や、韓国関係者の北朝鮮関係者に対する不信感、選手団選考などで南北間の溝が埋まらず、交渉は難航。7月には2度目の会談が行われたが、この席上で韓国側から会談打切り通告があり、結局、合同選手団は破談となっています。

 そこで、同年10月、北朝鮮は“DPRK”として国際オリンピック委員会(IOC)に正式加盟し、1964年冬季のインスブルック五輪以降、南北は別個に選手団を派遣することになりました。ただし、北朝鮮は、インドネシアが五輪に対抗して1963年に開催した“新興国競技大会(GANEFO)”への有力選手の参加が問題となり、東京五輪には参加しませんでしたが…。

 一方、北朝鮮がともかくも東京五輪への初参加を表明したことで、1964年3月、大韓体育大会会長の閔寛植が来日し、駐日代表部、在日本大韓民国居留民団(民団)、在日本大韓体育会(在日体育会)に支援を要請。これを受けて、民団中央顧問の李裕天を会長とする東京オリンピック在日韓国人後援会(以下、後援会)が結成され、①韓国選手の強化練習の支援、②韓国からの五輪参観団3000人の招請、③在日同胞応援団の結成、を目指して、1億4600万円を目標に募金活動を行いました。

 その過程で重要な役割を担ったのが、東声会の鄭建永(日本名・町井久之)です。

 鄭は、1923年、東京生まれ。終戦直後の1945年、朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長となり、それと前後して、事件屋(弁護士資格を持たないまま、他人の民事トラブルに介入し、“手数料”を得る職業)の“中央商会”や興行会社の“中央興行社”を設立し、そこから、“愚連隊・町井一家(関東町井一家)を組織し、東京都内の裏社会で隠然たる勢力を持っていました。

 1954年、サッカーW杯スイス大会予選の日韓戦でも巨額の支援を行った鄭は、その後、曺寧柱の影響で“大アジア主義”に感化され、1957年、銀座で町井一家を母体に「東洋の声に耳を傾ける」との理念を掲げて“東声会”を結成。右翼・尊王・反共を旨として、朝鮮総連に対する防波堤をもって任じていました。

 東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置き、1600人の構成員を抱える広域暴力団へと急成長したものの、これに脅威を抱いた他の暴力団等が反東声会で結束。さらに、警察による取り締まりが強化で幹部も逮捕が相次いだため、1963年、児玉誉士夫の仲介により、3代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となりました。

 閔はこうした事情を十分に理解したうえで、東声会にも後援会への支援を求め、鄭もこれに応えて後援会を物心両面から支えていたわけです。

 北朝鮮が初参加する夏季五輪ということで、韓国としては、なんとしても北朝鮮を上回る選手団を派遣し、一つでも多くのメダルを獲得する必要がありました。このため、後援会の支援を受けて、メダル獲得の可能性があるとみられたレスリング、ボクシング、マラソンの有力選手35人が事前に東京に派遣され、練習を積んでいます。また、後援会は3000人の参観団派遣という目標を設定しましたが、これは、北朝鮮が参観団を派遣しない(できない)という事情をとらえて、総連系が優位とされていた在日社会(当時は、総連系六、民団系四の比率といわれていました)に韓国の存在をアピールするとともに、多くの韓国人に“日本”を実際に見せることで、国交正常化を前に対日感情を和らげる効果を狙うという意図もありました。

 かくして、9月18日と23日の2回に分けて、韓国から234人もの大選手団が来日し、代々木の選手村に入ります。ちなみに、前回のローマ大会での韓国選手団は67人、東京の次のメキシコシティ大会では76人ですから、東京大会での選手団が異例の規模であったことがわかります。

 ところが、代々木の選手村では、民団や後援会の機先を制して、朝鮮総連の関係者が「朝鮮選手団を熱烈に歓迎する」との文言と金日成の写真が印刷されたビラを配りながら到着した選手たちを出迎えるという事件が発生。このため、東声会が朝鮮総連を実力で排除し、その際に負傷者も出ましたが、警視庁は“国際問題”への関与を恐れて、見て見ぬふりで通しています。

 こうして、1964年10月10日から始まった東京五輪では、韓国選手は、ボクシング男子バンタム級の鄭申朝とレスリング男子フリースタイルフライ級の張昌宣が銀、柔道の男子80キロ以下級の金義泰が銅、の3個のメダルを獲得しています。

 なお、1964年の東京五輪をめぐる韓国・北朝鮮の動きについては、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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