内藤陽介 Yosuke NAITO
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 西周の切手
2007-01-31 Wed 00:44
 今日は幕末・明治の碩学、西周の没後110年の忌日だそうです。というわけで、この切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

西周

 これは、文化人切手の第13集として、1952年1月31日に発行された西周の切手です。

 西は、1829年、石見国(現・島根県)津和野の医師の家に生れました。洋学を志して津和野藩を脱藩し蕃書調所に出仕。1862年、幕命でオランダに留学し、フィッセリングの下で法律・経済・哲学を学び、帰国後、開成所教授に就任しました。近代社会科学を正式に学んだ最初の人物として、多数の学術用語を翻訳。学術・科学・技術・芸術・哲学・主観・客観・本能・概念・観念・帰納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・知覚・感覚・総合・分解などの用語は彼の翻訳によるものです。また、第15代将軍・徳川慶喜の政治顧問に迎えられ、訳書『万国公報』を通して国際法を説き、将軍の命令で『議題腹稿』(憲法草案)を起草しています。

 明治維新後は、兵部省に出仕して、近代軍制の整備に尽力し、徴兵令・軍人勅諭などに関わりました。また加藤弘之や福沢諭吉らと明六社を結成し、多数の論文・著述を発表するなど啓蒙活動につとめ、元老院議官・貴族院議員等を歴任し、1897年に亡くなりました。

 その功績に比べて、一般社会における西の知名度は、他の文化人切手の人物よりもはるかに低く、当時の『産業経済新聞(現・産経新聞)』には「福沢諭吉、野口英世、夏目漱石・・・(中略)・・・といつた名は、一般に知られているが、西周は、ちょつと澁い」「西の名は文化切手で知つた人が多いことと思う」との記事が見られるほどでした。ちなみに、僕は小学校のとき、夏休みの自由研究で文化人切手の人物を調べて提出したのですが、たしか、担任の先生から「西周なんてよく知ってるね」と驚かれた記憶があります。

 さて、当初、西の切手は1951年5月に発行するものとして準備が進められていました。これは、通説として、(理由はわかりませんが)彼が亡くなったのは5月であったといわれていたからです。しかし、発行準備が進められる過程で、遺族から、西の忌日が5月というのは誤りだから、切手の発行は正しい忌日の1月31日にしてほしいとの申し出がありました。このため、5月の発行をめざして、すでに実用版まで完成していた西の切手は、急遽、発行延期となります。

 この間、1951年11月1日には、郵便料金が改正されて書状の基本料金が8円から10円に値上げされました。このため、西切手は、原版の額面部分を8円から10円に変更して、発行されることになりました。

 ところで、西の切手は、現在、日本切手のカタログ評価額が文化人切手の他のものよりもはるかに高くなっていることでも知られています。

 当時、郵政省の切手係であった八田知雄によると、当時、東京中央郵便局切手普及課は記念・特殊切手の売れ残り在庫を大量に抱え、その処理に苦労していました。このため、郵政省としては、西切手から切手普及課への切手の配給数を変更し、従来の4分の1にあたる5万枚にまで減らしました。このため、切手普及課での西切手の在庫処理は順調に進みましたが、その一方で、こうした変更は一般には明らかにされなかったため、従来どおり、「切手普及課に行けばいつでも買える」と考えていた収集家や切手商の中には西切手を入手しそこなう者が続出。市場ではこの切手が品薄となったといいます。

 こうした供給側の事情にくわえ、西切手は、郵便料金改正後最初の文化人切手となったことから、新料金の10円切手の需要が急増し、普通切手の供給不足を補うかたちで大量に消費されました。このため、未使用の残存数は、さらに少なくなり、結果として西切手の市価が高騰したものと考えられます。

 なお、今回ご紹介の西の切手をはじめ、文化人切手に関しては、拙著『濫造・濫発の時代 1946-1952』でも詳しくまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、お読みいただけると幸いです。
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