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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 サハリン棄民
2005-08-20 Sat 10:40
 終戦間際に日本に対して宣戦布告をしたソ連の非道を物語るエピソードとしては、満州での在留日本人に対する暴行・略奪やシベリア抑留などが広く知られていますが、南樺太での8月15日以降の戦闘のことも忘れてはならないでしょう。

 玉音放送から5日後の8月20日、ソ連軍は樺太南最北の不凍港・真岡への攻撃を開始。数隻の大型軍艦で町中に艦砲射撃を行った後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で虐殺。厚生省の資料によれば、およそ1000名の民間人が犠牲となりました。

 その後、ソ連軍は南樺太全域を占領。日本人の大半は日本へと引き揚げましたが、朝鮮半島出身者の多く(ほとんどが、炭鉱で働いていた)が帰国できないまま現地に留め置かれます。これは、当時の日本側がGHQとの話し合いの過程で、旧植民地である朝鮮半島出身者の南樺太からの引き揚げの問題を取り上げなかったことに加え、戦後復興の労働力として炭鉱労働者を活用したがっていたソ連側が、アメリカ占領下の南朝鮮(このときは、まだ大韓民国はできていない)の出身者が大半を占めていた南樺太在住の朝鮮人の帰国をできるだけ妨害しようとしていたことなどが、複雑に絡み合った結果でした。

 その後、東西冷戦が激しくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発する中で、南樺太在住の朝鮮人は、旧宗主国の日本からも、ソ連からも、そして祖国・韓国からも“忘れられた”存在として、出身地に帰国できない“サハリン棄民”として苦難の戦後史を歩むことになりました。

 今日、ご紹介したいのは、そんな“サハリン棄民”の差し出したカバー(封筒)です。

サハリン棄民

 このカバーは、1950年6月15日、旧本斗郡内幌町(現ゴルノザヴォーツク)在住の朝鮮人から韓国(カバー上の表記は“南朝鮮”)宛に差し出されたものです。差出人の住所は“炭山内”となっており、彼が日本統治下の南樺太で炭鉱労働者として働いていたことはほぼ間違いなさそうです。

 さて、このカバーは6月27日にはウラジオストックに到着していますが、その2日前の25日に朝鮮戦争が勃発していたため、韓国宛には配達ができなくなってしまい、7月1日に平壌に到着したところで留め置かれてしまいました。その後、朝鮮戦争の過程で平壌が国連軍に占領された際、その他の資料類とともに押収されたことで保存され、市場に出てきたものと思われます。

 いずれにせよ、1940年代後半の日本・ソ連・朝鮮半島の歴史の一断面が凝縮されたようなカバーとして、非常に興味深いものなのであることは間違いありません。
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