内藤陽介 Yosuke NAITO
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 パレスチナ分割決議60年
2007-11-30 Fri 09:18
 昨日(11月29日)は、1947年に現在のパレスチナ紛争の直接の引き金となった国連パレスチナ分割決議が採択されてから60周年にあたっていましたが、守屋前次官の逮捕ということで“元祖・防衛汚職”のネタで記事を書いてしまいました。というわけで、1日おくれですが、今日はパレスチナのネタで行きましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ユダヤ国民評議会

 これは、1948年5月にイスラエルが建国されるまでの間、ユダヤ国民評議会の支配下にあったメイル・シェフェヤからテルアビブ宛に差し出されたカバーです。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、アメリカ大統領となったトルーマンは、いわゆる中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、シオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンはイギリス政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(イギリス首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派によりイギリス人兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させたイギリスは、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、イギリスの対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案が、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されます。

 しかし、パレスチナ分割決議は、当時、全体の1割の土地を所有していたに過ぎないユダヤ系住民に対して、東地中海の肥沃な農耕地を含むパレスチナ全土の過半数が与えられるというもので、アラブ系住民にとっては、とうてい承服しがたいものでした。しかも、この分割案の作成に際しては、当事者であるパレスチナのアラブ住民の代表が意見を求められることもありませんでした。この結果、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は「服喪と圧政の日」とされ、第2次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 これに対して、パレスチナの治安に責任を負うべきはずのイギリスは、イギリス人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 さて、事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を受けて、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、イギリス撤退の軍事的空白を利用して、パレスチナを制圧する準備を進めていきました。

 その一環として、1948年5月に入ると、ユダヤ国民評議会は、テルアビブ、ハイファ、エルサレムの各郵便局でユダヤ国民基金の義捐証紙などにヘブライ語で“郵便”を示す加刷したものを、臨時の切手として発行し、自らの支配地域内における郵便物に貼付させるようになりました。こうした暫定切手は、5月3日(1日説もある)からイギリスの委任統治が終了する同月14日(一部では15日)まで発売され、イスラエル建国宣言後の同月22日まで有効とされています。また、これらの切手は、ユダヤ人地区(間)においてのみ有効で外国郵便には無効でした。

 今回ご紹介のカバーは、その一例で、テルアビブの切手商が作ったフィラテリックなものです。押されている消印の外側の円には“郵便”の文字と局名が、中央には“暫定政府”の文字が、それぞれ入っているのみで日付は入っていません。また、カバーの余白には、ユダヤの象徴であるダビデの星をはさんで、上下に、シオニズム運動の父と呼ばれるテオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』の一節(1896年2月14日)と、パレスチナ分割によるユダヤ人国家の創設を決めた国連決議第181号(1947年11月29日)の文字が入っており、イスラエル建国直前のシオニスト側の昂揚した雰囲気が伝わってくるようです。

 こうした混乱を経て、1948年5月15日にイスラエル国家の建国宣言と、それを認めないアラブ諸国の宣戦布告による第1次中東戦争の勃発という事態につながるわけですが、このあたりは郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルがありますので、いずれ、コレクションとしてきちんとまとめてみたいものです。

 *昨晩、カウンターが26万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。

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 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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