内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ビルマ独立60年
2008-01-04 Fri 14:19
 1948年1月4日にビルマ(ミャンマー)がイギリスから独立して、今日でちょうど60年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマ・独立準備政府

 これは、ビルマ独立直後の1948年3月24日、アメリカ宛に差し出されたカバーで、“過渡政府”加刷の1.5アンナ切手が13枚貼られています。

 第2次大戦中の1943年8月1日、ビルマではバーモを中心とする親日政府が独立を宣言しましたが、1945年、日本軍の撤退とともに、イギリスはビルマを再占領して軍政を施行。さらに同年10月には、インドのシムラに避難していたイギリス・ビルマ政庁が復帰し、イギリスによる植民地支配が復活します。

 このため、アウンサンを総裁とするパサパラ(反ファシスト人民自由連盟、AFPFL)は、ビルマの完全独立達成のため、イギリス側と交渉を開始。1947年1月、ロンドンでのアウンサン=アトリー協定の締結にこぎつけ、イギリス政府にビルマ独立を認めさせました。

 ところで、国内では、独立“ビルマ”の範囲をめぐって、さまざまな対立がありました。すなわち、英領ビルマは、大きく分けて、“辺境地区(高原・山岳地帯を中心とした地域で、英領ビルマ政庁による間接統治がなされていた行政区域)”と“管区ビルマ(平野部を中心とした地域で、英領ビルマ政庁が直接的に統治責任を負った行政区域)”の2つの部分から成り立っていましたが、このうち辺境地区のカレン族などは、アウンサンのビルマ行政参事会代表団とは別にロンドンに代表団を派遣し、カレン族の独立国家樹立を目指していました。その背景には、長年の民族的対立に加え、ビルマ族が、イギリス支配下で比較的優遇されていたカレン族を潜在的なスパイと見なして、彼らを弾圧したという事情もありました。

 このため、ロンドンから帰国したアウン・サンは、1947年2月、シャン州の州都タウンジーの東方にあるピンロン(パンロン)で、辺境地域(管区ビルマ外)の少数民族の代表らと会談。独立後、少数民族に自治権を与えることを約束し、辺境地域と管区ビルマを合わせた“英領ビルマ”の全域を、連邦制国家として独立させるとのパンロン協定の調印に成功します。

 しかし、この協定に調印した少数民族の代表は、シャン、カチン、チンの3民族に限られており、カヤー、カレン、モン、アラカンからは、カヤーとカレンから数名のオブザーバーしか認められていませんでした。このため、“連邦制”に反対するカレンは、1947年4月の制憲議会選挙をボイコットしたほか、連邦成立後も、独立闘争を展開することになりました。

 その後、1947年6月の制憲議会、10月のウー・ヌ=アトリー協定、12月のイギリス両院でのビルマ独立法案可決を経て、1948年1月4日、ビルマは、イギリス国王を国家元首とするコモンウェルス(英連邦)内の自治領としてではなく、独自の国家元首(大統領)を有する共和制国家として完全独立を達成します。

 今回ご紹介のカバーに貼られている切手は、独立直前の1947年10月に発行された“過渡政府”時代のもので、英領時代の切手に“過渡政府”を意味するビルマ語が加刷されたものです。

 さて、軍事政権による人権抑圧が続いている現在のビルマに関しては、昨年、僧侶が主導する大規模なデモが発生し、現地を取材していた日本人カメラマンが殉職したことは記憶に新しいところですし、年明けからは、言論統制の一環として、衛星テレビの視聴料金をこれまでの年間6000チャット(実勢レートで約525円)から100万チャット(同約9万円)に大幅に引き上げられるというニュースも入ってくるなど、目が離せない状況が続いています。1冊の本としてまとめられるかどうかは別として、とりあえず、いまのうちにビルマ史のポイントを抑えたマテリアルは整理しておくと、後々役に立つことがあるかもしれないと考えている内藤でした。
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