内藤陽介 Yosuke NAITO
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 メディア史研究会・予告編
2008-01-26 Sat 10:42
 かねてご案内のとおり、本日(26日)14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)で開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題して、研究発表をしてきます。というわけで、その予告編を兼ねて、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 議事堂(1939年)

 これは、1939年6月24日にタイで発行された“6月24日革命(立憲革命)”の記念切手です。

 1925年、ラーマ6世の跡を継いで即位した弟のラーマ7世は、ラーマ6世時代の放漫財政によって生じた赤字の解消を最優先の課題としていました。このため、国王は大胆な行政整理を行ったが、そのことは官僚層の不満を鬱積させることになりました。

 ところで、当時のタイは絶対君主制で一般国民の参政権は認められていませんでしたが、国王は立憲君主制への移行措置として1927年に勅撰議員からなる枢密院委員会を創設。1932年3月には外相から提出させた憲法草案を修正のうえ、同年4月のバンコク建都150周年の記念式典をめどに公布しようとしていましが、有力王族の反対もあって果たせませんでした。

 こうしたなかで、おりからの世界恐慌の中でタイ経済の落ち込みがひどくなり、給与税などの新税が導入され、一般の官吏が減俸されている中で、特権的王族への支出は削減されず、国民の不満が爆発。1932年6月24日、立憲君主制の実施を求めていた人民党がクーデターを起こして王族を人質に取り、国王に憲法公布を要求します。国王の側近たちはクーデターを武力で鎮圧することを主張しましたが、国王は「憲法公布は自分も考えていた」としてこれに応じ、6月27日、人民主権の憲法に署名・公布し、タイは無血革命で立憲君主制へと移行しました。これが、立憲革命のあらましです。

 ところが、革命後の人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強めていきます。これに対して、巻き返しを図る国王は“真の議会制民主主義”の実現を求めて人民党政権と対立しますが、かえって“護憲民主勢力”と自称する人民党は反対派を“旧体制への復帰を意図する憲法の敵”として弾圧。このため、立憲君主制のお飾りとなることを嫌った国王は1934年1月、眼病治療の名目でイギリスに渡り、1935年3月2日、そのまま退位。2度と帰国することのないまま、1941年にロンドンで客死しました。

 さて、今回の僕の発表の主役となるプレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)は、立憲革命の際に陸軍の青年将校として指導的な役割を果たした結果、革命後、次第に権力を拡大。1938年、ついに首相に就任します。ピブーンはヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢いに感嘆して国家主義を掲げ、首相就任後初の革命記念日となった1939年6月24日、「文明国人と同一の完全な愛国心をタイ人にもたせるための出発の日にすべき」と演説して、ラッタニヨム政策(国家信条)を発動します。

 その第一弾として、従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国名を“タイ”に変更したほか、タイ語を国語とする国民形成、国民の服装の西洋化、国産品の愛用、華僑の同化政策、全タイ民族の大同団結などの民族主義政策を展開していくことになるのです。

 今回ご紹介の切手は、そうしたラッタニヨム政策の出発点となった1939年の革命記念日に発行されたもので、革命の成果として国会議事堂(旧アナンタ・サマーコム宮殿)が取り上げられています。もっとも、切手を発行したピブーン政権が議会制民主主義を尊重していたかというと、話はまったく逆で、1944年8月1日までの前期ピブーン政権の時代、総選挙はまったく行われていません。

 なお、この切手の国名表示は“サヤーム”ですが、この切手が発行されてすぐに国名はタイに変わりますので、翌1940年に発行の切手からは切手の国名表示も変更されることになります。

 今日の発表では、こうしてスタートしたピブーン政権の時代の切手や郵便が、当時の政治状況や社会状況とどのように関わっていたのか、また、1940年に仏印に進駐し、1941年に対米英戦争に突入した日本とどのように関わっていたのか、ということを、拙著『タイ三都周郵記』の内容を補いながら、お話しする予定です。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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