内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 試験問題の解説(2008年2月)-3
2008-02-03 Sun 11:31
 都内の某大学でやっている『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題の解説、最終回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げます。

 北ベトナム・三国友好

 この切手は、1954年2月、ベトナム・ソ連・中国の“三国友好月間(1950年1月18日に中ソ両国がベトナム民主共和国を承認してから4周年になるのを記念して設定された)”を記念するために発行されたもので、ホー・チ・ミンを中央に、左右にマレンコフと毛沢東の肖像が掲げられています。また、肖像の背後には、各国の国旗も掲げられています。

 1945年3月、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きましたが、同年8月には降伏してしまいます。こうした混乱の中で、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ベトミン)はベトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されます。

 これに対して、1945年9月、イギリスの支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ベトミンと戦闘状態に突入。こうして、第一次インドシナ戦争がはじまりました。

 当初、インドシナ戦争は国際共産主義運動と無関係に推移していました。これは、東欧や北朝鮮の共産党政権が現地に進駐したソ連軍によって樹立されたのに対して、ベトミンの政権がソ連の支援を受けずに樹立されたためです。

 ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立し、翌1950年6月に朝鮮戦争が勃発するという国際情勢の中で、インドシナ戦争は否応なしにアジアの冷戦構造に巻き込まれていくことになります。

 すなわち、朝鮮戦争勃発直前の1950年5月、アメリカはフランスに対して1000万ドルのインドシナ戦費の援助を開始。第一次インドシナ戦争が終結した1954年には、インドシナでのフランスの戦費の8割弱を負担するまでになっています。その背景には、インドシナが共産主義者の手に落ちれば、周辺諸国は連鎖的に共産化してしまうのではないか、とのドミノ理論の強迫観念がありました。

 一方、ベトナムの共産主義者たちにしても、戦況を好転させるためには、隣国となった中国の共産党政権の支援が必要でした。かくして、1951年2月、インドシナ共産党がベトナム・ラオス・カンボジア3国の共産党に分割された際、新たに誕生したベトナム労働党の党規約は、マルクス・レーニン主義とならんで“毛沢東思想”を党の思想的基盤・行動の指針として掲げ、彼らは自らを東南アジアにおける社会主義陣営の前進基地をして売り込んでいくことになります。

 結局、ベトナムの共産主義者は中国・ソ連の支援を受けて戦況を好転させ、1953年11月に始まるディエンビエンフーの戦いに勝利を収めます。この結果、ベトナムの国土の4分の3がベトナム民主共和国の支配下に入り、共産主義者によるベトナム全土の“解放”が現実味を帯びて語られるようになりました。

 今回の切手は、こうした状況の下で発行されたものです。当時のベトナムは、インドシナ戦争の最終勝利、すなわち、全土の解放を達成するためにも、中ソ両国からの支援を引き続き得ていくことが不可欠でしたから、中ソ両国との友好関係を内外にアピールすることは重要な課題であり、その一環として“友好月間”が設定され、国家のメディアとしての切手もその宣伝に一役買うことになったというわけです。

 ちなみに、この切手では、中央のホー・チ・ミンの肖像は、正面ではなく右側、すなわち、毛沢東の方向を向いています。当時のベトナムにおいては、このスタイルのホー・チ・ミン像が広く用いられていましたから、切手上にこのスタイルの肖像が取り上げられても、それじたいは不思議なことではありません。ただし、当時、中国がソ連をはるかに凌駕する支援をベトナムに対して行っていたことを考えると、毛沢東の方を向くホー・チ・ミンという構図は、なんとも暗示的ではあります。

 もっとも、どれほどベトナムが“最終勝利”をめざそうとも、この切手が発行された1954年初頭の時点では、周辺の大国、なかでも中国はそれを望んでいませんでした。

 中国にしてみれば、ベトナム全土の共産化によってアメリカの軍事介入を招くことは、まさに、朝鮮戦争の悪夢の再現であり、なんとしても避けたいというのが本音でした。特に、朝鮮戦争の後遺症を癒しつつ、国内の社会主義建設を安定的に進めていくためには、中国の国境沿いに米軍が出現する可能性を排除し、安全保障を確保することが絶対に必要でしたから、インドシナ半島を分割して、アメリカを刺激しない程度の“北ベトナム”という緩衝国をつくることがベストとはいえなくともベターな選択でした。
 
 この結果、1954年7月、インドシナ戦争は停戦協定(ジュネーブ協定)にこぎつけ、ベトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されます。当時、インドシナ停戦の実現は中国が以降の勝利と喧伝されましたが、その内実は、中国が自国の安全保障のために小国ベトナムに犠牲を強いた結果でしかなかったのです。まぁ、かの国の語る“平和”なんて、所詮はそんなものだといってしまえばそれまでですが…。

 さて、試験の答案としては、この切手が第一次インドシナ戦争時のベトナム(共産側)で発行されたものであることを示した上で、①第一次インドシナ戦争の概要について触れる、②第一次インドシナ戦争と東西冷戦の関係を説明する、③第一次インドシナ戦争に対する中ソ、特に中国の思惑を説明する、といった点がポイントになります。

 以上で、『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題のうち、切手を題材としたものについての解説はオシマイです。切手以外の、一般的な歴史的事象についての問題に関しては、学生諸君が自分で調べることも可能でしょうから、このブログでの解説は省略します。

 なお、明日(4日)には、『中東郵便学』と題する授業の試験もあって、こちらでも切手を使った問題をいくつか出しているのですが、それらの解説については、明後日(5日)以降にこのブログに掲載する予定です。
スポンサーサイト

別窓 | 北ヴェトナム | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<< スリランカ独立60年 | 郵便学者・内藤陽介のブログ |  試験問題の解説(2008年2月)-2>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/