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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 バンコク→東京の試験飛行
2007-12-17 Mon 09:52
 12月17日は1903年にライト兄弟が初飛行に成功したことにちなんで、“飛行機の日”なのだそうです。というわけで、エアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

泰日FFC

 これは、1939年2月のバンコク→東京の試験飛行で運ばれた郵便物です。当時はエアメール自体が珍しかったためか、日本到着後は速達扱いで届けるよう、東京中央郵便局の付箋がつけられているのが面白いところです。ちなみに、付箋の下の切手と消印はこんな感じです。

泰日FFC(部分)

 タイの航空事業は、1913年にタイ政府が飛行機を購入し、バンコク郊外のドーンムアンに陸軍飛行場を建設したのが始まりで、サイアム航空(現在のタイ航空の前身)がナコーンラーチャシーマー(コラート。東北部の玄関にあたる都市)とウボンラーチャターニー(ウボン。ラオス南部、カンボジアと接するタイ最東端の都市)の間に初の国内線定期航路が開設されたのは1922年のことでした。

 日本との航空便に関しては、1940年6月10日に東京とバンコクの間を結ぶ大日本航空株式会社の航路が開設されましたが、それに先立ち、1939年1月から2月にかけて、ハインケル“乃木号”による試験飛行が行われています。

 当時の新聞記事によると、1月26日に東京・立川飛行場を出発した乃木号は、翌27日、18時間37分かけてバンコクのドーンムアン飛行場に到着。現地に8日間滞在した後、2月4日午後10時、バンコクを出発して翌5日午後4時50分、立川飛行場に帰着しました。この間、給油のため台北に1時間立ち寄り、飛行時間は17時間10分でした。

 2月5日の立川飛行場には、藤原保明航空局長官以下、日本側関係者名もとより、スレシナシャム駐日公使以下の公使館員、さらには来日中のシャレンボール殿下(国王の甥)も駆けつけて乃木号を出迎え、試験飛行の成功を祝福しています。

 現在、立川飛行場は自衛隊の駐屯地になっていますし、バンコクの国際空港もドーンムアンではなくスワンナプームですから、当時とまったく同じルートをたどってみるのは事実上不可能です。それでも、途中で台北に立ち寄るということは十分に可能ですから、そういう意味では、乃木号の奇跡をなぞってみることは不可能ではないかもしれません。

 なお、今回ご紹介のカバーは、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げていますので、よろしかったら、ぜひ、こちらもご覧いただけると幸いです。
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 タイの国民投票
2007-08-19 Sun 01:35
 昨年9月のクーデターから民主化プロセスを進めるタイで今日(19日)、新憲法案の賛否を問う同国初の国民投票が実施されます。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

民主記念塔

 これは、1943年に発行された民主記念塔を描く2サターンの切手です。民主記念塔の切手は、前年の1942年に同じ図案で5サターンと15サターンの切手が発行されましたが、2サターン、3サターン、10サターンの切手は翌年の発行です。

 1939年、当時のピブーン政権は民族主義政策の一環として、1932年の立憲革命の記念日である6月24日を“民族の日”と定め、翌1940年の同日にこの切手の記念塔を完成させました。

 塔は、バンコクの王宮からもほど近いラーチャダムヌーン通にあり、中央の塔を囲むように、民主主義の飛躍を象徴する4つの翼が配されたデザインになっています。また、周囲には75基の大砲が配置されているほか、翼の下には立憲革命の主役となった人民党員の活躍を描いた絵も描かれています。

 塔のてっぺんには箱があって、そこには憲法典が収められていることから“憲法記念塔”と呼ばれることもあります。今回、国民投票で新憲法案が可決されれば、その憲法典もこの箱に収められることになるのでしょう。(事前の世論調査では、賛成が有権者の70%超と圧倒的多数だそうです)

 60年間、憲法を“不磨の大典”として後生大事にしてきた日本からすると驚くべきことかもしれませんが、今回の新憲法が承認されれば、1932年の立憲革命から数えて、なんと18回目の憲法ということになります。今回の新憲法案では、昨年9月のクーデターで廃止された1997年の旧憲法では規定していなかった首相任期を2期8年に制限し、小選挙区制から中選挙区制に変更するなど、前政権を支えた巨大与党の再来を阻止する内容となっているのが特色です。

 今後のスケジュールとしては、現在のスラユット暫定政権は今年12月に新憲法下で総選挙を実施する予定だそうです。今後、なにかとタイのことがマスコミで取り上げられる機会が増えるでしょうが、僕が現在執筆中のタイの本は、11月の<JAPEX>にあわせての刊行予定です。うまくすると、タイが話題になっている中で、ちょっと毛色の変わった1冊として皆さんに注目していただけるかも…そんなふうに期待しながら、日々原稿を書いています。
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 バンコクからアユタヤへ
2007-08-06 Mon 08:14
 タイ上陸3日目(実質2日目)。今日は、これから、かつてのアユタヤ朝(1351-1767)の古都・アユタヤに行ってきます。アユタヤといえば、なんといってもバーン・パイン離宮。ただ、この離宮の切手が貼られたカバーのうち、気の利いたモノは以前の記事でもご紹介してしまいましたので、今日は、パソコンに取り込んである画像の中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

バンコクからアユタヤ宛の葉書

 これは、1939年7月8日、バンコクからアユタヤ宛に差し出された葉書です。バンコクでの差出時にはタイ語の標語印が押されていますが、あいにく僕はタイ語には不案内なので、どなたか訳していただける方がおられたら幸いです。なお、アユタヤでの到着印の欧文表示は、現在よく目にするAYUTTHAYAではなく、AYUDHAYAになっています。

 葉書は、現国王ラーマ9世(プミポン国王)の兄、ラーマ8世の時代のもので、印面は彼の肖像です。

 ラーマ8世は1925年に父であるソンクラーナカリン親王の留学先、ハイデルベルグで生れました。1928年に父親王が亡くなると、スイスのローザンヌに移り、1935年に国王として即位。ただし、当時は10歳と幼少のため、国王じしんはスイスに留まり、国内には摂政が置かれました。タイへの帰国は、国王が成人し、第二次大戦が終結した1945年のことですが、翌1946年には射殺体で発見(犯人は不明)されるという、数奇な運命をたどっています。

 ラーマ8世の時代は、ちょうど、昭和の戦争の時代とかぶっていることもあって、僕にとっては、切手や葉書の印面に描かれた少年王の肖像には、なんとなくなじみがあります。ちなみに、以前の記事でご紹介したバーン・パイン宮殿の切手は1941年発行の通常切手のシリーズですが、このシリーズの低額面の切手のデザインは、この葉書と同じ構図のラーマ8世の肖像です。
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 泰俘虜収容所の葉書
2007-01-17 Wed 02:12
 今年は日本とタイの修好120年ということで、両国ではこれを記念してさまざまなイベントが予定されていますが、昨日(16日)、そのオープニング行事として、バンコクで日本人グループが和太鼓を演奏したのだそうです。

 こういう話を聞くと、せっかくの機会ですから、年内に“タイ切手展”といった類のイベントができたら良いなぁと思ってしまいます。で、この企画が実現した暁には、僕も、下の画像みたいな葉書を集めたコレクションで参加したいですねぇ。(画像はクリックで拡大されます)

泰俘はがきタイプ4

 第2次大戦中の1943年、日本軍は泰緬鉄道の建設に連合国の捕虜を動員するため、“泰俘虜収容所”を設け、タイとビルマ(ミャンマー)にまたがって6つの収容所分所を設置しました。“泰俘虜収容所”は、鉄道の建設工事が終了した後も存続し、さまざまなタイプの葉書が作られ、捕虜たちに支給されました。

 今回ご紹介しているものは、そのうちのタイプ4といわれているものです。この葉書は、日本の軍事郵便用の葉書用紙に“俘虜郵便”ならびに“泰俘虜収容所”の文字を加捺したもので、裏面には、タイプ1と呼ばれるものと同様の通信文が印刷されています。

 また、画像ではちょっと見づらいのですが、“No2 POW THAILAND”という紫色のスタンプも押されていますが、これは、この葉書がチュンカイにあった第2分所で使われたことを示しています。ちなみに、タイプ4の葉書は第2分所での使用例しか確認されていません。また、この葉書には差出の日付はないのですが、裏面には1943年7月16日到着という書き込みがあります。

 捕虜郵便は基本的に料金無料なので切手が貼られず、どうしても地味な印象がぬぐえないのですが、“泰俘虜収容所”に関しては、葉書のバリエーションが豊富なので、1フレーム(16リーフ)程度なら、あまり退屈しない作品を作ることができます。まぁ、毛色の変わった葉書のコレクションとして、フィラテリックな面では面白いと思うのですが、冷静に考えてみると、この手の題材は、“日タイ修好120年”にからめてのイベントにはふさわしくないといわれてしまうかもしれませんねぇ。

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 タイのしたたかさ
2006-04-02 Sun 23:49
 まずは、このカバー(封筒)を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

タイのスローガン

 このカバーは、1941年10月にバンコクからニューヨーク宛に差し出されたもので、途中、中継地のシンガポールでイギリス当局によって開封・検閲されています。カバー中央に押された“THAILAND IMPLORES FOR WORLD PEACE(タイは世界平和を希求する)”の印にご注目ください。

 1939年に欧州大戦が勃発すると、大戦に巻き込まれることを嫌ったタイは、1940年6月12日、日本と和親条約を結ぶとともに、英仏とも不可侵条約を結びます。しかし、19世紀以来、インドシナを植民地化したフランスはタイ側の国境を侵犯してこの地域を仏印に組み込んでいたことから、同年6月22日にヨーロッパでのフランス本国敗戦の報に接したタイは、混乱に乗じて失地の回復をもくろみます。

 こうしたタイの意図を察知した日本は、1940年11月、「タイの失地回復に協力することにより日泰緊密関係を確立するとともに、仏印を利導して仏印に対する帝国勢力の進出拡充を図り、以って帝国の大東亜における指導的地位の確立に資せんとす」として調停に乗り出し、タイと仏印の国境問題はタイ側に有利に解決します。この段階では、タイの外交姿勢は、“親日”が全面に打ち出されていました。

 ところが、その後、日米関係が悪化の一途をたどり、両国の戦争が避けられない状態となると、日本の戦争に巻き込まれることを懸念したタイは、あわてて、親日色を払拭し、日本と米英との対立に関して自らは“中立”であると主張しはじめます。

 今回ご紹介しているカバーのスローガン印も、その一環として、自らの“中立性”を諸外国にアピールするために、タイから外国宛の郵便物に押されたものというわけです。

 結局、このカバーが差し出されたからわずか2ヵ月後の12月8日、太平洋戦争の勃発によって、タイには日本軍が進駐し、タイは否応無しに戦争へと巻き込まれていきます。しかし、その後もタイは、日本軍が優勢なうちは親日色を打ち出しながら、日本軍が劣勢になると抗日組織を通じて連合国とも連絡を取り、戦後は“敗戦国”としてのダメージを最小限に抑えています。

 19世紀から20世紀にかけて、東南アジア諸国が軒並み植民地化されていく中で、タイのみが独立を保ちえた一つの要因として、タイの政治的ないしは外交的なしたたかさが挙げられますが、第二次大戦時の対応にも、そうした片鱗は十分にうかがえます。

 タクシン首相一族による巨額の株売却問題に始まったタイの政治危機の大きな転機になりそうな総選挙の投票が、今日(2日)行われました。選挙の結果そのものは明日の午前中には出揃うのでしょうが、とにかく、したたかなタイ人同士の争いですからねぇ。この先もまだまだ一波乱ありそうな気がするのは僕だけではないでしょう。

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 タイ占領下のマライ
2005-12-05 Mon 16:08
 今日はタイのラーマ9世(いわゆるプミポン国王)のお誕生日だそうです。とういわけで、タイに関するモノの中から、今日はこんなものをひっぱりだして見ました。

 タイ占領下のマライ

 第二次大戦中、タイは中立国でしたが、周囲を占領していた日本とは友好的な関係を保ち、日本軍にも協力的でした。ところが戦況が次第に日本にとって不利になってくると、タイは徐々に日本への協力を渋り始めます。このため、タイをつなぎとめておく必要に迫られた日本側は、1943年10月、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州(タイは、これらの地域を自国の領土として、長年、英領マライに返還を求めていた)をタイに割譲しました。

 これに伴い、現地で使用するために、タイの国名表示をした切手・葉書が製造され、1944年1月から使用されました。これらの切手は、もともとタイ国内で使われていたものとデザインは同じですが、額面がバーツではなく、セントになっているので容易に区別できます。

 今日ご紹介している葉書は、そうしたタイ占領下のマライ、アロスターから差し出されたもので、マライのイポー経由で昭南(シンガポール)まで届けられました。切手収集家が差し出した、いわゆるフィラテリックカバーですが、それでも、残っている量は決して多くはないので手に入れようとするとそれなりの出費が必要でしょう。

 マライの北部4州のタイへの割譲に関しては、いろいろとおもしろいマテリアルが存在しているのですが、なかなかご縁がなく、現在のところ、この1点しか手元にはありません。来年のワシントンでの展覧会までに、なんとか、追加のブツを手に入れたいのですが…。
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 戦時下・占領下のクリスマス:泰緬鉄道-1943年
2005-11-28 Mon 15:53
 一昨日のブログ では、第二次大戦中のドイツのクリスマスカードをご紹介しましたので、今日は、アジアの戦場から差し出されたこんな1枚を引っ張り出してみます。

泰緬鉄道クリスマス

泰緬鉄道クリスマス裏

 この葉書は、第二次大戦中、泰緬鉄道の建設に動員されたオランダ人俘虜が差し出したものです。裏面(右側の画像)には、With best wishes for a cheerful Christmas!の一文が印刷されており、1943年のクリスマスを前に、俘虜たちに配給され、使用されたことが分かります。

 葉書表面には泰俘虜収容所第三分所の担当者が検閲済の印を押すスペースがありますが、この第三分所というのは、泰緬鉄道の建設中はビルマ地域におかれていましたが、1943年10月に工事が終了するとタイのニーケに移転しています。したがって、この葉書も、ニーケから差し出されたものということになります。

 検閲を受けた日付は、昭和19年1月13日。ナチス占領下のオランダに届けられた時には(ナチス・ドイツの検閲を受けたことを示す赤い印が押されています)、クリスマス・シーズンは終わっていたはずですが、葉書を受け取った家族にとっては、ともかく差出人が無事に生きていることが確認できただけでも何よりのプレゼントだったのではないでしょうか。

 まさに、「戦場のメリークリスマス」を地で行くような1枚です。
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