内藤陽介 Yosuke NAITO
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 セント・パトリックス・デー
2017-03-17 Fri 18:29
 きょう(17日)は、セント・パトリックス・デー(アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日で、アイルランド最大の祝祭日)です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アイルランド・聖パトリックス大隊

 これは、1847年にアイルランドで発行されたセント・パトリックス大隊150年の記念切手です。

 1836年にメキシコから独立したテキサス共和国は、当初から、米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択する。これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名します。

 テキサスを併合した米国は、その西側の領土の買収もメキシコに持ちかけましたが、メキシコはこれに猛反発し、1846年5月、米墨戦争が勃発します。

 ところで、開戦後、プロテスタントが主流を占める米軍は、メキシコのカトリックの教会に避難していた人々に対して、容赦なく発砲。このため、もともと、米国社会で不遇をかこっていたアイルランド系カトリック兵約500名は米軍を離脱し、カトリックの進行を同じうするメキシコ軍に合流。彼らは、1846年9月21日のモンテレーの戦い以降、ジョン・ライリー司令官の下、メキシコ軍の砲兵隊“セント・パトリックス大隊(スペイン語名:サン・パトリシオス)”として戦いました。

 セント・パトリックス大隊は、多くの犠牲を出しながらも勇敢に戦いましたが、1847年8月20日のチュルブスコの戦いでは35名の戦死者を出して敗北し、85名が米軍の捕虜となり、“脱走兵”としてタクバヤおよびサンアンヘルの軍事裁判にかけられました。ちなみに、米墨戦争中の米軍の脱走兵は9000人以上いましたが、軍事裁判にかけられて処罰の対象となったのはセント・パトリックス大隊のメンバーだけでした。

 裁判の欠陥、タクバヤの法廷で30名が、サンアンヘルの法廷で20名が反逆罪として絞首刑の判決を受け、1847年9月10日、刑が執行されました。その他の者には、米軍の軍歴がなかった(=“脱走兵”にはならない)ことが証明されて無罪となった2名を除き、裸の背中に50回、鞭打ちをした後、脱走兵(deserter)を示すDの文字を焼き付け、戦争が続いている間は首の周りに鉄のくびきをつけるという判決が下されています。

 米墨戦争は、最終的に、米国の勝利に終わり、1848年2月に結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、リオ・グランデ以北、テキサスからカリフォルニアまでの広大な領土をわずか1500万ドルで米国に売却させられました。戦後の1850年、メキシコ軍は、正式に、セント・パトリックス大隊の任を解きましたが、現在なお、メキシコ・アイルランド両国では、彼らは英雄とされており、処刑後150周年の節目には、今回ご紹介のアイルランド切手と同図案の記念切手がメキシコでも発行されています。


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 モザンビークの鉄道
2017-03-16 Thu 14:36
 今月13日からきょう(16日)まで日本を訪問中のモザンビークのフィリペ・ジャシント・ニュシ大統領が、きのう(15日)、安倍首相との会談後、両陛下とも会見したそうです。というわけで、モザンビーク鉄道港湾公社出身の大統領にちなんで、今日は、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モザンビーク会社領・ベイラ鉄道はがき

 これは、1904年、モザンビーク会社領で発行された葉書で、ザンベジ川の鉄橋を渡るベイラ鉄道が取り上げられています。

 1822年、ポルトガルにとってドル箱の植民地だったブラジルが独立すると、ポルトガル国内では政治の混乱が続き、経済も低迷。国家財政も急速に悪化し、ポルトガルは鉄道や鉱山の利権を担保に英国から借金を重ねました。

 こうした経緯を経て、19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、ポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断する“バラ色地図計画”を発表したものの、1890年には英国の圧力で現在のザンビアジンバブエマラウイに相当する地域の領有を断念し、1891年の条約で“ポルトガル領モザンビーク”の領域が確定されます。

 さらに、1891年、ポルトガルは英仏資本の勅許会社、モザンビーク会社ニアサ会社に対して、ポルトガル植民地政庁の裁判所の運営経費を負担し、宗教活動に援助することを条件に、50年間、両者の“会社領”とされた地域において司法権を除く各種の権利(警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業、鉄道建設、鉱山開発、農場経営などの権利)を与えます。

 このうち、モザンビーク会社領とされたのは、現在のモザンビーク中央部、マニッカ州およびソファラ州に相当する地域で、同社の植民地経営の拠点となったのが、港湾都市のベイラでした。
 
 なお、モザンビークには、中部のベイラの他、マプート、ナカラ、ケリマネ、ペンバ、パライアの計6ヵ所の港湾がありますが、そのうち、北部の拠点となるのがナカラ、中部がベイラ、南部がマプートです。これらの港湾は周辺内陸国からの商品作物や鉱産資源の積出港となっていたため、港湾と併せて鉄道が整備されることになりました。ニュシ大統領が以前勤めていた鉄道港湾公社という組織は、こうした事情から生まれたものです。なお、主要な3港湾から後背地域へのアクセス経路はナカラ回廊、ベイラ回廊、マプート回廊と呼ばれています。

 今回ご紹介の葉書に取り上げられているベイラ鉄道は、1892年、モザンビーク会社がベイラから内陸のイギリス南アフリカ会社領のムタレ(現・ジンバブエ。ベイラから290km、モザンビーク会社領との境界からは8km)までの区間で建設を開始し、1898年に開通しました。20世紀初頭には、英領ケープ植民地(現・南アフリカ共和国)のフライバーグやソールズベリー(現・ジンバブエの首都ハラレ)を結ぶ鉄道路線と接続して南東アフリカにおけるイギリスの物流を支える大動脈となり、ベイラは域外に輸出する物心の集散地として経済的に繁栄しました。

 さらに、ボーア戦争後、ポルトガル領東アフリカに対する英国の介入は一層露骨になって、ベイラ港の港湾施設や鉄道は、モザンビーク会社からイギリス南アフリカ会社へ譲渡されただけでなく、両社の間では役員の交換も行われて一体化が進みます。またモザンビーク会社は南ローデシアトランスヴァールで南アフリカ会社が経営する鉱山に、黒人労働者を送り込み、最盛期にはモザンビークから年間10万人が出稼ぎに行きました。

 モザンビークの鉄道網は、独立後の内戦で大きな打撃を受け、その後の修復が不十分な状況が続いきましたが、近年、日本を含む各国の支援により、モザンビーク・マラウィ両国にまたがるナカラ鉄道の682kmの既存鉄道路線の整備と230kmの路線新設(ナカラ港における石炭ターミナルの新設・一般貨物ターミナルの整備を含む)が進められており、今後の地域開発と産業振興が期待されています。


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 TAXE
2017-03-15 Wed 11:53
 所得税の確定申告は今日(15日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ませたという方も多いのでしょうが、僕は今年もまた〆切ギリギリ、先ほどようやく書類を提出したところです。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・リオ開港100年記念絵葉書裏面  ブラジル・リオ開港100年絵葉書

 これは、1908年7月14日にブラジルで発行された“リオ・デ・ジャネイロ(以下、リオ)開港100周年”の記念絵葉書の使用例で、1910年3月10日、リオ・グランデ・ド・スル州のサンタマリアからドイツ宛に差し出され、3月12日付のモンテヴィデオ(ウルグアイ)の中継印が押されています。葉書はもともと国内用のもので額面は50ヘアイスですが、これに100ヘアイス切手を貼り足したものの、料金不足だったため、万国郵便連合の公用語、フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“TAXE”の頭文字の“T”の印を押し、不足料として200ヘアイスを徴収すべきことが書きこまれています。

 1502年1月、ガスパール・デ・レモス率いるポルトガルの艦隊はブラジル・グアナバラ湾に到着。グアナバラ湾は湾口がぐっと狭まっているため、彼らはここを川と勘違いし、到着したのが1月だったことから、河口の一帯を“1月の川”、すなわちリオ・デ・ジャネイロと命名しました。

 その後、欧州でナポレオン戦争の嵐が吹き荒れていた1808年、ナポレオン軍の攻撃を受けたポルトガルのブラガンザ王朝はリスボンからブラジルに逃れ、植民地政庁のあったリオに亡命政権を樹立します。以後、1821年にポルトガルの宮廷がリスボンに帰還するまでの間、リオの開発は急速に進み、その後の繁栄の基礎が築かれます。

 今回ご紹介の絵葉書はこのリオ遷都から100周年になるのを記念して発行されたもので、同図案の切手も発行されています。絵面の原画は、ブラジル近代絵画の巨匠エンリケ・ベルナルデリが制作しました。グアナバラ湾を背景に、ブラジルを象徴する女神と、ポルトガルを象徴する勇者が向かい合うようすが取り上げられており、居並ぶ艦隊の隙間越しにポン・ヂ・アスーカルを描くことで、ポルトガル人がリオに到着したばかりであることを表現しています。また、上方には、当時のポルトガル国王カルロス1世(左)とブラジル大統領アルフォンソ・ペナ(右)の肖像も並べて描かれています。

 なお、リオデジャネイロとその歴史については、昨年刊行の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 世界の国々:ドミニカ国
2017-03-14 Tue 10:26
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』3月8日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はドミニカ国の特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ドミニカ国・バルバドス経由米宛  ドミニカ国・バルバドス経由米宛裏面

 これは、第二次大戦中の1944年1月(?)、英領ドミニカの首府、ロゾーからニューヨーク宛の書留便とその裏面で、バルバドス経由の迂回ルートで逓送されているのがミソです。

 1939年9月、ドイツのポーランド侵攻に対して、ポーランドの同盟国であった英仏は、それぞれ、ポーランドと結んでいた相互援助条約に基づいてドイツに宣戦を布告し、第二次欧州大戦が勃発します。

 大戦の勃発当初、カリブ海と大西洋の境界となっている小アンティル諸島のうち、英国の支配下にあった島々は、行政上、北部の英領リーワード諸島(東から西へと吹く貿易風の風下側)連邦と、南部の英領ウィンドワード諸島(貿易風の風上側)連邦に分割されており、ドミニカ島はリーワード諸島連邦の南端として位置付けられていました。

 また、海を隔ててドミニカ島の北隣には仏領グアドループが、南隣には仏領マルティニークがありましたが、1939年中は、英仏はともにドイツと戦う同盟関係にあったため、ドミニカ島は戦時下の緊張状態にはなく、同島と海外とを往来する郵便物も従前どおりの扱いでした。

 むしろ、当時の英国のドミニカ統治においては、1930年にカリブ族の大反乱が発生し、1936年には地方議会でアフリカ系の議員が全体の半数を占めるなど、民族主義の高揚の方が問題だと認識されていました。このため、1940年1月、英植民地当局は、民族主義の強かったリーワード諸島の枠組からドミニカ島を切り離し、情勢が安定していた英領ウィンドワード諸島の北端として行政上の帰属を変更し、植民地統治の安定をはかろうとします。

 一方、欧州戦線では、1940年6月、フランスがドイツに敗北。フランス本国ではフィリップ・ペタンを国家元首とする親独ヴィシー政権が成立しましたが、ドイツへの徹底抗戦を主張するド・ゴール派はロンドンに亡命政府の自由フランスを樹立し、仏領植民地も両派に分裂。こうした状況の中で、グアドループとマルティニークの仏領植民地政府はヴィシー政権支持の立場を取ったため、英領ドミニカ島は親独政権によって南北をはさまれることになり、情勢は一挙に緊迫化します。

 このため、戦況によっては、英領ドミニカから米国宛の郵便物の中には、北進してストレートに米国に運ばれるものだけではなく、南のバルバドスを経由する迂回ルートが取られることもありました。今回ご紹介のカバーはその一例で、裏面の着印をたどると、ロゾー(1944年月日不明)→バルバドス(1月30または31日)→ニューヨーク(2月16日着)というルートを取っていることがわかります。また、逓送途中で、英領当局および米当局によって開封・検閲を受けています。

 ヴィシー政権の支配下に置かれた仏領マルティニークとグアドループでは、フランス当局は従来以上に先住民に対して抑圧的な姿勢で臨んだため、“反対者(西インド諸島の仏領植民地でのド・ゴール派)”として、大戦中、数千人の先住民が英領ドミニカに逃れました。その中には、マルティニーク出身で、後にアルジェリア独立運動のイデオローグとなるフランツ・ファノンのように、自由フランス軍に加わってドイツと戦う者も少なくありませんでした。

 ドミニカ島は、ナポレオン戦争中の1805年に英国の領有権が確定するまでは、英仏の勢力角逐の場となっており、フランスによる支配も断続的に行われていたため、首府ロゾーを中心に、フランスの影響も色濃く残っていました。また、カリブ海の英領地域において奴隷制が廃止されたのが1834年だったのに対して、仏領地域での奴隷制廃止は10年以上も遅い1848年だったため、この間、マルティニークやグアドループからの逃亡奴隷が英領ドミニカに逃げ込む事例も少なからずあり、彼らの子孫を通じて、宗主国の違いを越えて、3地域の住民の間には交流がありました。

 こうしたことから、ドミニカ島の住民は、近隣仏領地域から逃れてきた“反対者”を積極的に支援するという状況が生まれたわけです。

 一方、ドミニカ島の宗主国、英国はドイツとの戦争の当事者でもあったから、英領ドミニカでも義勇兵の徴募が行われ、若者たちが英連邦軍の兵士として枢軸国と戦い、英国の勝利に貢献しました。ドイツとの戦争で亡くなったドミニカ島出身兵の名前は、ロゾーのヴィクトリア・ストリートにある戦没者慰霊碑に刻まれており、毎年、退役軍人や警察官、士官学校生らが行うパレードでは祖国の英雄として顕彰されています。

 さて、『世界の切手コレクション』3月8日号の「世界の国々」では、第二次大戦中の英領ドミニカについて扱った長文コラムに加え、1979年のハリケーン・デイヴィッドの際のカバー、ギムレットの材料として有名なドミニカ産ライム、世界最高齢とされた女性のエリザベス・イスラエル、先住民のカリブ人の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のドミニカ国の次は、あす(15日)発売の3月22日号での赤道ギニアの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の22日以降、このブログでもご紹介する予定です。 


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 HAPPY HOLI!
2017-03-13 Mon 08:27
 きょう(13日)は、ヒンドゥー世界では春の訪れを祝う“ホーリー祭”の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・こどもの日(ホーリー)

 これは、2002年11月14日にインドが発行した“こどもの日”の切手で、ホーリー祭を描いた児童画が取り上げられています。

 ホーリー祭は、インド暦第11月の満月の日(太陽暦では3月)の2日間、春の訪れを祝って行われる祭りで、もともとは豊作を祈願するためのものでしたが、その後、インド各地の悪魔払いの伝説等の要素を取り込み、誰彼無く色粉や色水を掛け合ったりする行事となりました。

 色粉や色水を掛け合う習慣は、もともとは、カシミール地方の伝承で、この日に人家に押し入ってくる悪鬼ビシャーチャを追い払うため泥や汚物を投げつけたのが由来とされています。ただし、祭としては、実際に汚物を投げ合うわけにはいかないので、糞尿の代わりに黄色、血の代わりに赤、田畑のシンボルとして緑の色粉・色水を掛け合うようになりました。また、クリシュナ伝説にちなみ、ブランコにまつわる儀礼がおこなわれる地域もあります。

 ホーリー祭の初日は、日没後、男女のグループに別れ、ヒンドゥーの神々や人間の男女の愛情を表現する歌を掛け合いで歌い、焚き火を燃やして悪霊を焼き幸福を祈願。2日目の午前中、色粉・色水などを掛け合うのが一般的です。色粉などを塗りあった後は「ハッピー・ホーリー」と言いながら抱き合うことも多く、人々は、体中、色まみれになります。また、この日だけは、カーストなどの身分秩序を越えて、無礼講が許されています。

 ちなみに、ヒンドゥーでは飲酒は禁じられていないものの、好ましからざる習慣とされているため、普段はお酒を飲まないという信徒も多いのですが、ホーリー当日だけは例外で(なにせ無礼講の日ですから)、朝から盛大に酒を飲んで、昼ごろには酔いつぶれている人が続出するのだとか。色まみれになるのは、ちょっと勘弁してもらいたいのですが、朝酒なら付き合ってみても良いかなぁ。


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 サウジアラビア国王来日
2017-03-12 Sun 14:33
 サウジアラビアのサルマーン国王が、きょう(12日)から15日までの日程で来日されます。サウジアラビア国王の来日は、1971年のファイサル国王以来、46年ぶりですが、今回の国王来日は、王族や企業幹部ら随行団が“1000-1500人の規模”、持ち込まれる荷物の総重量が450トン超という桁違いとなっていることでも話題になっています。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジ・サルマーン国王(2015)

 これは、2015年4月27日、サウジアラビアで発行されたサルマーン新国王(中央)とムクリン皇太子兼副首相(右。肩書は切手発行当時)とムハンマド・ビン・ナーイフ副皇太子兼内務大臣(左。同)の3人が取り上げられています。

 サルマーン国王は、1935年12月31日、初代サウジアラビア国王イブン・サウードの25番目の男子で、イブン・サウードが最も寵愛したスデイリ家出身のハッサ妃との間に生まれた7人の男子、“スデイリー・セブン”の1人です。

 1954年にリヤード州の副知事に就任し、1955-60年、1963-2011年にリヤード州知事を務めました。2011年10月、スデイリー・セブンの一人で兄のスルターン皇太子兼副首相兼国防大臣が死去すると後継の国防大臣に就任。さらに、2012年6月、やはりスデイリー・セブンの一人で兄のナーイフ皇太子兼副首相兼内務大臣が死去すると、国防大臣と兼任する形で王位継承順1位である皇太子兼副首相にも就任しまし。

 2015年1月23日、第6代のアブドゥッラー国王の崩御に伴い、第7代国王として即位し、首相を兼任しました。

 これに伴い、王位継承順第2位だったムクリン副皇太子兼第二副首相が皇太子兼副首相に、王位継承順第2位となる副皇太子兼第二副首相にナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフ内務大臣が任じられました。しかし、即位後間もない2015年4月29日、ムクリンを解任し、ムハンマド・ビン・ナーイフを内務大臣と政治・安全保障評議会議長に兼職のまま皇太子兼副首相に昇格させ、息子のムハンマド・ビン・サルマーンを国防大臣と経済開発評議会議長に兼職のまま副皇太子兼第二副首相に昇格させました。

 解任されたムクリンは初代国王イブン・サウードの子ではありますが、スデイリー・セブンではなく、イエメン出身のバラカが母親です。

 1945年生まれで、英国・米国の空軍大学で学んだ後、1965年にサウジアラビア空軍に入隊。1980年の除隊後は、マディーナ州知事として医療・教育改革で実績を上げ、2005年10月、サウジアラビア総合情報庁長官に就任。国内のイスラム過激派排除に辣腕をふるったほか、パキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ、ナワーズ・シャリーフ、ベーナズィール・ブットーの政治的和解のために尽力しました。こうした実績が認められ、2012年7月、アブドゥッラー国王の顧問・国王特使に任じられ、2013年2月1日には第二副首相に、2014年には、サウジアラビア史上初の副皇太子に指名されました。

 このように、スデイリー・セブンの一員でないにもかかわらず、アブドゥッラー前国王に近い政治的実力者だったムクリーの存在は、スデイリー・セブン派を重用したい国王とその周辺にとっては厄介なもので、そのことが、彼の解任につながったとみられています。ただし、ムクリーに関しては、彼に何らかの非があって皇太子兼副首相から解任されたわけではなかったことは明らかでしたから、ムクリー派に対する一定の“配慮”として、息子のマンスールが国王顧問に任じられました。

 いずれにせよ、今回ご紹介の切手の3人の組み合わせは、国王の即位からわずか3ヵ月間しか続かなかったわけですが、その後、この切手がサウジアラビア国内でどういう扱いになっているのか、そのあたりについては調べきれませんでした。どなたか、詳細をご存じの方がおられましたら、御教示いただけると幸いです。

 
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 ラオス通貨を使った詐欺
2017-03-11 Sat 16:41
 「ラオスに融資すれば金利によって利益が得られる」などともちかけ、80代女性にラオスの紙幣300万キープ相当(日本円で4万円弱)を渡して、日本円150万円をだまし取っていた男4人が、きのう(10日)、大阪府警に逮捕されました。男らは、同様の手口で、京都府や兵庫県に住む60-90代の男女約100人から計約1億2000万円をだまし取ったと見られています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ラオス・改値加刷(2014)

 これは、2014年7月22日にラオスで発行された1万1000キープ切手で、1984年に発行された国章図案の1キープ切手に新額面を加刷しています。元の額面の1万倍以上の高額加刷ですが、日本円に換算すると146円前後。2013年(今回ご紹介の切手が発行される前年)に僕がラオスを訪れた時の物価では、ミネラルウォーターのペットボトルが2000キープでしたから、1万1000キープ(日本円で146円前後)だと5本半。物価感覚からすると、日本では5-600円といった感じでしょうか。

 さて、旧仏領インドシナのうち、現在のラオスの地では、第2次大戦末期の1945年3月、日本軍によっていわゆる明号作戦が発動され、同年4月、日本の影響下でシーサワーンウォン王がラオス王国の独立を宣言しました。

 ところが、第二次大戦後、インドシナ支配の復活をもくろむフランスが再進駐してくると、シーサワーン・ウォンは独立を撤回。これに不満を持つ民族主義者は、1945年10月、ラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、従来の仏印ピアストルに代わる新通貨として“キープ”を導入し、自らの支配地域で流通させました。

 これに対して、フランスはシーサワーン・ウォンに内政の自治権を与えて懐柔するとともに、ラオ・イサラを攻撃。このため、ラオ・イサラの指導者たちはタイに亡命政府を樹立し、ラオスの地ではふたたび、仏印ピアストルが使用されるようになります。

 1946年の第一次インドシナ戦争勃発を経て、1949年にラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立し、1953年10月22日に完全独立を達成します。これに先立ち、1952年、カンボジア・ラオス・ベトナム国立発券局は独立に向けた移行措置として、仏印ピアストルとキープの両通貨を発行しました。両通貨は等価で、ラオス王国の独立後も1957年まで両通貨併記の紙幣が使われていました。その後、1957年にラオス王国は両通貨併記の紙幣を廃止し、新通貨として“王国キープ(ヴィエンチャン・キープとも)”を導入。以後、1975年まで、王国キープがラオスの法定通貨となります。

 1975年12月、王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した後も、当初は王国キープが使用されていましたが、内戦中のインフレに対応すべく、1976年6月13日、新通貨として“解放キープ(パテート・ラーオ・キープとも)”が導入されました。新旧通貨の交換レートは1解放キープ=20王国キープです。

 しかし、その後も社会的な混乱に伴い急激なインフレが進行し続けたため、1979年12月16日に100分の1のデノミを伴う通貨改革が実施され、現行通貨としてのPDRキープ(ラオス人民民主主義共和国 キープ、国立銀行キープとも)が導入され、現在に至っています。

 ちなみに、1979年の現行キープ導入後、1980年のラオスのインフレ率は188.82%(同時期の日本は7.81%)で、その後も20世紀中はおおむね2ケタの高インフレ率を記録していましたが(特に、1985年は114.70%、1999年は128.41%と3ケタを記録しています)、2005年以降のインフレ率はおおむね5-7%程度に収まっています。

 今回ご紹介の切手が発行された2014年のインフレ率は5.50%でしたから、この切手も、急激なインフレに対応するためというよりは、純粋に、郵便局の在庫不足を補うため、インフレで使い道がなくなり、大量に余っていた低額切手を持ち出して加刷したものと思われます。なお、加刷には“2014年3月5日”の日付が表示されていますが、これが何を意味するのかは調べきれませんでした。

 当初、改値加刷は機械で印刷されることも検討されましたが、現場スタッフの間では手押し加刷の方が望ましいという声が強かったため(おそらく、印刷所からの大量の横流しを恐れたものと思われます)、1枚ずつ、手押しの印が押されました。ちなみに、手押し加刷に要した経費は、加刷用の印顆の製作費や人件費など、米ドル換算で580ドルでした。また、加刷に使用された台切手の額面合計は米ドル換算で 41.13でしたが、加刷切手の額面合計は28万6675.80ドルと大幅に上昇しました。

 なお、加刷切手の製造は、2014年9月4日に終了し、それにあわせて、ラオス当局は、加刷に用いた印顆を公開の場で焼却するセレモニーを行い、以後、新たな加刷切手の製造はないことを国民の前でアピールしています。


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 朴槿恵大統領、失職
2017-03-10 Fri 15:27
 韓国の憲法裁判所は、きょう(10日)、国会が可決した朴槿恵大統領(以下、敬称略)の弾劾訴追を妥当との判断を下しました。これにより、朴槿恵は大統領を罷免されて即時失職。任期中の大統領の罷免は韓国の憲政史上初めてのことです。というわけで、今日はストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・朴槿恵大統領就任

 これは、2013年の朴槿恵大統領就任時に韓国で発行された記念切手です。

 朴槿恵は、1952年2月20日、大邱生まれ。1961年のクーデターで父親の朴正熙が政権を掌握したことに伴いソウルに移り、1974年、西江大学校電子工学科を卒業。卒業後はフランスへ留学しましたが、1974年、いわゆる文世光事件で母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国。1979年に父親が暗殺されるまで、ファーストレディー役を務めました。父の死を耳にした際の第一声は、混乱に乗じた北朝鮮の南侵を懸念した「休戦線は大丈夫か」だったというエピソードは有名です。

 その後、ガールスカウト団名誉総裁、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選に当選し政界入り。当選後は、保守系のハンナラ党副総裁など党要職を歴任。2002年2月にハンナラ党を離党した後、同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を結成しましたが、11月にハンナラ党に復帰しています。

 2004年3月23日、ハンナラ党の代表に就任。同年の選挙では、ハンナラ党の苦戦が予想されていましたが、朴槿恵の知名度と人気で後退は最小限にとどまり、“ハンナラ党のジャンヌ・ダルク”と呼ばれました。2006年5月20日、遊説中にカッターナイフで男に切り付けられ、右耳下から顎にかけて60針縫う手術を受けた際には、盧武鉉大統領の支持団体からは、「60針を縫ったのは整形手術」と揶揄されましたが、それが逆に一般国民の反感を招き、地方選挙でのハンナラ党圧勝につながりました。この実績から、2007年大統領選挙の有力候補とみられるようになり、同年6月、ハンナラ党の代表を辞任して大統領選挙の準備に専念したものの、党の公認候補にはなれませんでした。

 その後、2012年の大統領選挙を目指して、2010年12月27日、「国家未来研究院」を創設。重要選挙でのハンナラ党のあいつぐ敗北と関係者のスキャンダルにより党代表の辞任が相次いだことを受けて、2011年10月、非常対策委員会の委員長として5年5ヶ月ぶりに党の指揮を執り、ハンナラ党をセヌリ党と改称したうえで、翌2012年の総選挙では単独過半数を維持。セヌリ党の大統領候補として地位を固め、12月19日の大統領選挙で当選を果たしています。

 父親の朴正煕が日本の陸軍士官学校を卒業して満洲国軍に在籍していたことから、朴槿恵に対しては早くから“親日派”との批判が浴びせられていたこともあって、大統領就任直後の2013年3月1日、朴槿恵は三・一独立運動記念式典では、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説。その後も、“歴史認識”やいわゆる“慰安婦問題”などで日本批判を続けたため、日韓関係は冷却。その欠を補うために対中傾斜を強め、そのことがますます、日韓関係を悪化させるという悪循環を招きました。

 発足後間もない2013年3月7日、朴槿惠政権は、中露を巻き込んで国連安保理の新たな北朝鮮制裁決議(2094号)を全会一致で採択させることに成功しましたが、2014年の旅客船セウォル号の沈没事故への韓国政府の対応のまずさから政権への支持率は急落。さらに、2016年1月の北朝鮮の核実験後、韓国が中国に対北朝鮮制裁で協力を求めたにもかかわらず、中国側は対話を通じて解決することを強調するなど、安全保障面では、朴政権の対中外交はさしたる成果は上げることができませんでした。このため、2016年7月、韓国国防省と在韓米軍がTHAADミサイルを在韓米軍に配備することを決定しますが、そのことは、中露の強い反発を招き、対中関係も冷却。中国は“限韓令”として、韓国からの輸入規制措置・非関税障壁・韓流排除などの露骨な貿易報復措置を発動し、経済状況も大きく悪化しました。

 こうした中で、2016年10月、大統領の個人的な友人・崔順実による国政介入問題(崔順実ゲート事件)が発覚したことで、支持率はさらに落ち込み、11月初頭には5%までに下落。このため、11月29日には、大統領の任期短縮を含む自らの進退をすべて国会に委ねる意向を表明すると、12月9日、国会は大統領の弾劾訴追案を可決。これを受けて、同日、大統領としての彼女の職務が停止され、きょうの憲法裁判所の判断となったといわけです。

 なお、今回の大統領失職を受けて、60日以内(5月99日まで)に、韓国では大統領選挙が実施されることになっています。韓国では、毎回、新大統領に就任に合わせて記念切手を発行していますので、次期大統領の就任時にも、慣例に従い、肖像を取り上げた記念切手が発行される可能性が高いでしょう。ただし、今回の一件で、大統領職そのものの権威が大きく傷ついたことは否めませんので、ひょっとすると、今回ご紹介の切手が韓国新大統領就任の記念切手としては最後の1枚になるかもしれません。

 さて、いまから10年近く前の2008年、僕は『韓国現代史』と題する拙著を上梓しましたが、同書は、李明博政権の発足までしかカバーしていません。来年は大韓民国の正式成立から70周年でもありますし、可能であれば、李明博以降の10年間を追加したアップデート版を作ってみたいですね。


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 ミュシャ展はじまる
2017-03-09 Thu 13:44
 昨日(8日)から、日本とチェコ(当時はチェコスロヴァキア)の国交回復60周年の特別企画として、東京・六本木の国立新美術館で“ミュシャ展”がスタートしました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・プラハ城(1918・3ハレル)

 これは、1918年に発行されたチェコスロヴァキアのプラハ城切手(3ハレル)です。

 第1次大戦以前、オーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下に置かれていたチェコとスロヴァキアは、1918年10月18日、チェコスロヴァキアとして独立を宣言します。当初、新国家はオーストリア時代の切手を接収し、“チェコスロヴァキア共和国”などの文字を上から印刷するなどの暫定的な処置で急場をしのいでいましたが、これと併行して、独立国としてオリジナル・デザインの新切手を発行すべく準備を進めました。

 新国家は自国出身の巨匠であったミュシャ(チェコ語の発音だと“ムハ”)に切手のデザインを依頼。これを受けて、ミュシャは、独立後まもない祖国のためにプラハ城を大きく描き、右手に小さく聖ミクラーシュ教会を配した切手のデザインを無償で作成します。

 ミュシャのデザインした切手は、1918年12月18日、最初の3額面(3ハレル、5ハレル、10ハレル)が発行されたのを皮切りに、1920年までさまざまな額面のものが発行されました。これが、いわゆる“プラハ城切手”です。

 プラハ城切手は、当時の混乱した状況の中で製造されたことから、一見、同じに見える切手でもさまざまなバラエティに分類することができます。ちなみに、今回ご紹介の切手は、このうち、最初に発行されたタイプAと呼ばれるもので、このタイプは、“CESKO SLOVENSKA POSTA(チェコスロバキア郵政)”の表示が白抜き文字で、切手の左右に縦書きで印刷されています。

 また、当時は、わずか2年5ヶ月の間に3回の郵便料金の値上げがあったため、さまざまな種類の郵便物が残されることになりました。これらを専門的に追いかけていくと、時間もお金も相当かかるのですが、それだけに、チャレンジしがいのある分野として収集家の間では人気があります。その一方で、安いものでは、1枚100円前後で入手できるモノも少なからずありますので、とりあえず、切手とは無関係に、“ホンモノのミュシャ”を手に入れてみたいという方にもお勧めの素材です。


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 国際女性デー
2017-03-08 Wed 09:20
 きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、拙著の中から女性ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・アントニオカルロスジョビン(1999)

 これは、1999年にブラジルが発行した“アントニオ・カルロス・ジョビン没後5周年”の切手で、彼の代表作、『イパネマの娘』をイメージして海岸のピアノと若い女性の後ろ姿が描かれています。

 アントニオ・カルロス・ジョビン(トム)は、1927年、リオのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを弾きはじめ、音楽家になることを夢見ていましたが、高校卒業後は、生活の安定を考えて建築学校に入学しました。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ナイト・クラブでピアノを弾いていたところ、1952年、当時のブラジル音楽界の大御所、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社。翌1953年、オデオン・レコード(EMI・ブラジル)に移って、作編曲家として活動するようになります。

 1956年、ヴィニシウス・ヂ・モライスがプロデュースしたミュージカル『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1959年に『黒いオルフェ』としてフランス・イタリア・ブラジル合作で映画化され、カンヌのパルム・ドールなどを受賞)の音楽を担当して以来、ヂ・モライスとジョビンはコンビを組んで数々の曲を発表するようになり、1958年には、“サンバ・カンサゥン(白人を中心に、比較的穏やかなリズムで叙情的な内容を歌ったサンバ)の女王”、“ブラジル音楽の至宝”などと呼ばれていた当代一の女性歌手、エリゼッチ・カルドーゾのアルバム『愛しすぎた者の歌』の全収録曲を手がけます。このアルバムの成功により、ヴィニシウスとジョビンは現代ブラジル文化を象徴するビッグ・ネームとなりました。

 彼らの代表曲『イパネマの娘』の舞台となったリオ・イパネマ区は、コパカバーナ海岸の南端から西へ500mほど行ったところからはじまる海岸とその周辺の高級住宅街で、帝政末期の1885年に“イパネマ男爵”を襲爵した不動産王、ジョゼ・アントニオ・モレイラ・フィーリョが周辺一帯を開発したことが、地名の由来となりました。ちなみに、この爵位は、彼の父親、ジョゼ・アントニオ・モレイラが、サンパウロの西96km に位置するソロカーバの地のイパネマ川沿いにイパネマ製鉄所を建設した功績に対して与えられたものです。

 さて、イパネマの海岸通りから、ヴィニシウス・ヂ・モライス通りを北に歩いて最初の角には、現在、その名も“ガロッタ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)”という名のショッペリア(生ビールを出すバー)がありますが、もともと、この店は1960年代初頭には“ヴェローゾ”というバール(生ビールは出さず、瓶ビールを出す食事処)でした。

 さて、1960年代初頭のヴェローゾはヂ・モライスやジョビンらボサノヴァ関係者のたまり場の店でしたが、ここには、近所に住むエロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピントという少女が母親のお使いで、ちょくちょく煙草を買いに来ていました。

 1945年生まれのエロイーザは、1962年の時点で17歳。身長170センチのすらっとした美少女で、ヂ・モライスとジョビンは彼女の歩く姿を見て『イパネマの娘』のインスピレーションを得たといわれています。

 ただし、一部でいわれているように、この曲の歌詞はヂ・モライスがほぼ即興で仕上げたというわけではなく、入念な準備と推敲を重ね、2通りのバージョンを作った上で現在の歌詞のほうを選び、それにジョビンが曲をつけたという、難産の末の作品でした。

 ちなみに、『イパネマの娘』の冒頭の歌詞は「見てごらん。なんて可愛い女の子だろう 優雅さに満ち溢れていて 甘い揺れのなかで やって来ては 海辺を歩いていくよ。」となっていますが、ここでいう“甘い揺れ(doce balanco)”というのは、歩きながらお尻がプリッと揺れるようすのことです。男女ともに、セックス・アピールの対象となるパーツは圧倒的にお尻だというお国柄だからこその表現で、切手のデザインも、これを踏まえて後ろ姿の女性が描かれています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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