内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 113歳のアウシュヴィッツ生還者亡くなる
2017-08-12 Sat 10:46
 1903年生まれで、アウシュヴィッツを生き延びた世界最高齢のイスラエル人男性、イスラエル・クリスタルさんが、きのう(11日)亡くなりました。享年113歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうはアウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・レターシート(1945年)

 これは、1945年1月5日、アウシュヴィッツの収容者がポーランド南部のベンジン(ドイツ語名ベンズブルク)宛に差し出した郵便物で、収容者専用のレターシートが使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者の通信には専用の封筒・便箋・葉書が使用されていましたが、外部から差し入れられるなどして、通常の葉書等が用いられることもありました。その後、戦況の悪化に伴い、封筒と便箋が一体となったレターシートが使われるようになります。その後、1944年夏頃から、さらなる戦況の悪化に伴い、今回ご紹介の画像のような、さらに簡便化された2つ折り形式のレターシートが導入・使用されています。

 その後、1944年11月に入ると、ソ連軍の接近に伴い、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所からの撤収が開始されます。その際、病気などで移動が不可能と判断されたものを除き、6万以上の収容者が西方のヴォディスワフまで徒歩で行進させられ、そこからグロスローゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、マウトハウゼン等の各収容所に移送され、その過程で1万数千人が命を落としました。このため、1944年11月以降、アウシュヴィッツ発の郵便物は激減。特に、1945年1月27日にはソ連軍が進駐して収容所を“解放”するため、今回ご紹介の郵便物のように、1945年の発信は現存数は1桁レベルではないかと思います。

 ちなみに、1945年1月の収容所解放の時点で、アウシュヴィッツに残されていた収容者は7000人ですが、今回亡くなったイスラエル・クリスタルさんもそのうちの1人で、体重がわずか37キロと危機的な状態で救出されたそうです。 

 なお、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | ドイツ:ナチス収容所 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 山の日
2017-08-11 Fri 11:04
 きょう(11日)は“山の日”です。というわけで、山に関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・エルサレムへの道(1949)

 これは、1949年にイスラエルが発行した普通切手のうち、“エルサレムへの道”をデザイン化した1枚で、城壁とダヴィデの塔を見上げる山道が描かれています。切手の下部にはイザヤ書52章9節の「主は(その民を慰め)エルサレムを贖われた」の文言が入っています。今回は、切手下のタブに同49章11節の「わたしはすべての山に道をひらき」の文言と山の絵が入っていますので、“山の日”ネタの1枚として持ってきました。

 ダヴィデ王の時代以前のエルサレムの集落は現在の城壁の南東部の斜面にありました。ちなみに、切手に描かれた“ダヴィデの塔”は、エルサレム旧市街の西側、ヤッファ門の近くに位置しており、ダヴィデ王が建立したとの伝承により、東ローマ帝国時代に“ダヴィデの塔”の名称が定着しました。ただし、歴史的事実としては、紀元前20年にヘロデ王がエルサレム防衛のために建設した要塞がその起源で、その後の増改築を経て、オスマン帝国のスレイマーン1世の治世下で現在の姿となりました。現在では、『旧約聖書』に登場するカナンの時代からイスラエル建国までの歴史を紹介する博物館として公開されています。

 ちなみに、歴代誌によれば、ダヴィデ王の子、ソロモン王の時代、“エルサレムのモリヤ山上”に神殿が建設されました。これは、今回ご紹介の切手にあるダヴィデの塔の付近から北側に向かって斜面を上りきった頂上を指しているとされ、現在の“神殿の丘/ハラム・シャリーフ”の起源となりました。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、現在、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 
  

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | イスラエル | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 世界の国々:タンザニア
2017-08-10 Thu 08:36
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年8月2日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はタンザニアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タンザニア・キリマンジャロ(1965)

 これは、1965年にタンザニアが発行したキリマンジャロ山の切手です。

 アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロは、タンザニア北東部に位置し、標高5895m、東西約50km、南北30kmに広がった成層火山です。西からシラ峰、キボ峰、マウエンジ峰から構成されており、中央のキボ峰のみが休火山で他の2峰は死火山です。

 地名の由来としては、一般に、スワヒリ語で“山”を意味する“キリマ”と、チャガ語で“白”を意味する“ンジャロ”の合成語で、“白く輝く山”の意味とされています。

 その名の通り、最高峰のキボ峰の山頂付近にはレブマン氷河をはじめ巨大な氷河が存在していましたが、近年の気候変動により、その規模は急激に縮小しており、国連環境計画は「2020年までに完全に消滅する可能性がある」と警告しています。

 さて、ケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民、マサイ人の間では“神の家”を意味する“ンガジェンガ”と呼ばれていたキリマンジャロの存在が、西洋人にも知られるようになったのは、1840年代のことでした。

 1847年、ケニアの東海岸で布教をしていたドイツ人宣教師のヨハネス・レブマンは、頂上が銀でおおわれた高い山があることを聞いて内陸部に調査に向かい、翌1848年5月11日、チャガ人の土地で、山頂が白銀に覆われた高山を“発見”します。レブマンは、さっそく、この高山のことを報告しましたが、当時のヨーロッパの地理学者は熱帯に雪が存在するはずがないとの思い込みから、レブマンの報告を信じませんでした。

 その後、“熱帯の雪山”の存在が確認されると、ドイツ人将校のカール・クラウス・フォン・デア・デッケンと英国人地質学者リチャード・ソーントンが1861年には2500m地点まで、1862年には4280m地点まで到達します。

 列強によるアフリカ分割の過程で、キリマンジャロは英独の勢力圏の境界に位置するようになり、英国は山の北側に進出。しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は山全体をドイツ領とすることを要求。1885年のベルリン会議では、ドイツの要求が認められ、山の全体はヴィルヘルム1世の誕生日のプレゼントとして英国からドイツへと割譲され、ドイツ領東アフリカの領域が確定しました。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割され、キリマンジャロは英領タンガニーカに組み込まれました。

 すでにドイツ領東アフリカ時代から、キリマンジャロ地域ではコーヒーのプランテーション栽培が始まっていましたが、英支配下の1921年、海岸のタンガ港から南麓のモシまで鉄道が開通。これにより、モシはコーヒーの集散地となり、1932年に設立された“キリマンジャロ原住民共同組合連合会”が品質管理を本格的に行うようになります。この結果、かつては粗悪品のイメージが強く、イエメンに運ばれて“モカ”にブレンドされていたこの地域のコーヒー豆は、“キリマンジャロ”として独自のブランドとなり、モシは急速に発展しました。

 1961年、タンガニーカが独立すると、キリマンジャロは新国家のシンボルとなり、キボ峰の山頂はスワヒリ語で“自由”を意味する“ウフル”と命名され、山頂には“ウフル・トーチ(自由の松明)”が灯されたほか、初代大統領ジュリウス・ニエレレによる独立宣言が刻まれたレリーフが設置されました。

 1964年、タンガニーカは対岸のザンジバルと連合し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国(現タンザニア連合共和国)が発足。新政権は、1967年にアルーシャ宣言を発して社会主義化を進め、“ウジャマー村”と呼ばれる協同農場を各地に設けました。しかし、キリマンジャロ地域のコーヒー農場は独立以前から外国人が経営している大規模プランテーションも多かったことから、農業集団化は強行されず、このため、1985年、ウジャマー村が惨憺たる失敗に終わり、大統領のニエレレが引退に追い込まれた際にも、経済失政のダメージは比較的軽微でした。

 この間、1971年にはアルーシャとモシの間にキリマンジャロ国際空港が開港。1973年には山域の一部、7万5575ヘクタールがキリマンジャロ国立公園に指定され、1987年にキリマンジャロ山域を含むキリマンジャロ国立公園が、ユネスコの世界遺産に登録されるなど、観光資源としての開発も進められています。ちなみに、少し古いデータですが、2013年、キリマンジャロ国立公園を訪れた観光客は5万3000人でした。

 さて、『世界の切手コレクション』8月2日号の「世界の国々」では、キリマンジャロについての長文コラムのほか、世界遺産・コンドアの岩絵、キリマンジャロ・コーヒー、ヴィクトリア湖、探検家・リヴィングストンとスタンリーの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のウルグアイの次は、きのう(9日)発売の8月17日号でのイタリアの特集になります。こちらについては、発行日の17日以降、このブログでもご紹介する予定です。 

      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | タンザニア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 無事帰国しました。
2017-08-09 Wed 15:24
      バンドンにて

 おかげさまで、本日(9日)朝、無事、インドネシアから帰国いたしました。世界切手展<Bandung 2017>の会期中、現地では、コミッショナーの山崎好是さん、審査員の正田幸弘さん、同アプレンティスの井上和幸さん、ご出品者の有吉伸人さん、池田健三郎さん、伊藤純英さん、伊藤文久さん、榎沢祐一さん、増山三郎さん、吉田敬さん、日本からご参観の菊地恵実さん、杉原 正樹さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、自身の作品が従前どおり金賞を維持できたことをはじめ、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、しかるべき媒体でご報告する予定です。

 さて、今回の切手展には、僕はコミッショナーを担当しましたが、その証書は受賞者の方々に授与された賞状と同じフォーマットで、下のようなデザインでした。

      バンドン展・賞状

 証書には開催地バンドン市の花であるオオゴチョウをデザイン化した展覧会のロゴマークが取り上げられています。ロゴマークは、証書の左上に印刷されているほか、切手展のメダル(下の画像)にも大きく取り上げられています。

      バンドン展・メダル  バンドン展・メダル裏

 メダルの裏面に取り上げられているのは、現在は西ジャワ州庁舎として使われているグドゥング・サテが取り上げられています。グドゥング・サテは、1996年にバンドンで開催されたユース切手展の記念切手(下の画像)にもバンドンのシンボルとして取り上げられました。

      インドネシア・グドゥング・サテ

 グドゥング・サテは、オランダ植民地時代の1920年、蘭印政庁の運輸・公共事業・水利省の庁舎として建設されました。設計はオランダ人建築家のJ・ゲルベルです。インドネシア独立後は西ジャワ州庁舎および州知事公邸として用いられています。なお、グドゥング・サテというのは、直訳すると“サテ・ビル”を意味する愛称で、これは、建物中央の形状がインドネシアの伝統的な串焼きの“サテ”に似ていることからつけられたニックネームです。今回の切手展では、初日の夜に西ジャワ州知事主催のウェルカムレセプションがあり、僕もご招待に与り、夜間、ライトアップされたグドゥング・サテも拝んできましたので、昼間の建物の画像と併せて、下に貼っておきます。ちなみに、冒頭の画像は、グドゥング・サテで行われたウェルカム・パーティーで、地元の民族服姿の女性と一緒に撮影したものです。

      グドゥング・サテ(昼間)  グドゥング・サテ(夜間)

 さて、今年は、あと1回、10月24-29日(火-日)の6日間、ブラジル・ブラジリア市のUlysses Guimaraes Convention Centerで世界切手展<BRASILIA 2017>の開催が予定されています。僕はその日本コミッショナー兼出品者として参加する予定となっており、今後とも、皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、よろしくお願いいたします。 
 
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | インドネシア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 <Bandung 2017>終了
2017-08-08 Tue 07:15
 早いもので、3日からインドネシア・バンドンで開催されていた世界切手展<Bandung 2017>は、昨日(7日)、無事にすべての日程を終了しました。すでに、日本からの出品作品の撤去も完了してインドネシアの税関当局に預けております。きょうは、この後ジャカルタに向かい、空港で作品をピックアップの後、現地時間で22時前の飛行機で成田に向かいます。というわけで、無事の帰国を願って、毎度恒例、2都市間のエアメールの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      日本航空・ジャカルタ宛FFC(仮)

 これは、1962年7月16日、東京(羽田)からジャカルタ宛に差し出された日本航空の初飛行カバー(FFC)で、カシェには日本をイメージした舞姿の女性が描かれています。ジャカルタでの留置期間を経過した後、無事に日本に返送されたものですので、僕も作品ともども無事に日本に返送されますように…との思いを込めて選んでみました。また、貼られている切手が、たなばたあさがおなど、季節を感じさせるものとなっているのも良いですな。ちなみに、今回の僕のフライトも日本航空です。

 さて、今回の切手展では、コミッショナーの山崎好是さん、審査員の正田幸弘さん、同アプレンティスの井上和幸さん、ご出品者の有吉伸人さん、池田健三郎さん、伊藤純英さん、伊藤文久さん、榎沢増祐一さん、山三郎さん、吉田敬さん、日本からご参観の菊地恵実さん、杉原 正樹さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、自身の作品が従前どおり金賞を維持できたことをはじめ、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は明朝の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1961~1966 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ガダルカナルの戦い75年
2017-08-07 Mon 08:13
 1942年8月7日、、米海兵隊第1海兵師団がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、いわゆるガダルカナル島の戦いが始まってから、きょうで75周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ガダルカナルの戦い25周年

 これは、1967年に英領ソロモン諸島が発行した“ガダルカナル島の戦い25周年”の記念切手のうち、米海兵隊のレッド・ビーチ上陸場面を描いた切手です。

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島のツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了しました。日本軍はこの飛行場をルンガ飛行場と命名します。

 これに対して、8月7日午前4時、米軍の第1海兵師団1万900名が、オーストラリア軍の支援の下、ガダルカナル島テナル川東岸付近の通称“レッド・ビーチ”に上陸を開始しました。同時にツラギ島方面にも4個大隊1500名が上陸。ガダルカナル島の日本軍は完全に寝込みを襲われた格好で、連合軍の奇襲攻撃は成功します。そして、同12日、米軍は飛行場を占領し、これをヘンダーソン飛行場と改称。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナル島に上陸した約3万名の日本軍将兵のうち、撤退できたのは1万名余しかおらず、戦死者2万1000名のうち、1万5000名は病死または餓死だったといわれています。このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。

 一方、一連の戦闘を通じての連合国側の戦死傷者は 6842名でした。激戦地となったヘンダーソン飛行場は、現在、ホニアラ国際空港として、ソロモン諸島の空の玄関口となっていますが、その近くには、戦いの火ぶたを切った米第1海兵師団の戦死者を追悼する慰霊碑も建てられています。(下の画像)

      ホニアラ空港近く・米海兵隊慰霊碑

 さて、ガダルカナルというと、どうしても、第二次大戦の激戦地というイメージが強いのですが、1568年にスペイン人が上陸して以来の歴史をひも解いてみると、いろいろと興味深いエピソードがあります。今年4月の同島訪問の体験も踏まえ、いずれそれらをまとめて、いままでとはちょっと違った視点から、複合的に“ガダルカナル”の過去と現在を考える物語をまとめてみたいですね。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | ソロモン諸島 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 <Bandung 2017>受賞速報
2017-08-06 Sun 03:20
      インドネシア・勲章授与(1949)

 3日からインドネシア・バンドン市のトランス・ステュディオ・コンヴェンション・センターで開催中のアジア世界切手展<Bandung 2017>は、昨日(5日)までにすべての作品の審査が終了し、受賞結果が下記の通り発表されましたので、速報としてお伝えいたします。リストのうち、出品者名は日本語表記、文献を除く作品名は英文でリスト記載のとおり、カッコ内は点数です。ただし、速報値ゆえ、誤りなどがありましたら、後日訂正いたしますので、ご容赦ください。

 ・増山三郎 Japanese Occupation in Java 1942-1945 LV(88)
 ・丹羽昭夫 Japan: Tazawa Series "Taisho" Watermarked Granite Paper, Old Die LV(88)
 ・鏑木顕 Japanese Occupation of the Philippines 1942-1945 V(81)
 ・村山廣佑 Japan Chrysanthemum Series 1899-1908 V(83)
 ・伊藤純英 JAPAN: Showa Series 1937-46 LV(88)
 ・和田輝洋 Japan Showa Issue 1937-1947 V(83) 
 ・石澤司 Ryukyus Air Mail Stamps 1950-60 LS(77)
 ・山田祐司 Japan 1871-1876 Hand Engraved Issues G(93) +SP(treatment)
 ・有吉伸人 Napoléon non Lauré-FRANCE1852-1862 G(90)
 ・吉田敬 Kingdom of Prussia: 1850-1867 LV(87)
 ・佐藤浩一 Republica Argentina: Sitting Liberty Series 1899-1903 LV(88)
 ・池田健三郎 Postal History of the Cape of Good Hope LV(85)
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1865-1905 LV(88)  
 ・山崎好是 Japane Courier Mail LV(88)
 ・伊藤文久 Hungarian Inflation 1945-1946 LV(87) 
 ・和田文明 U.S. Return Receipt Requested & Avis de Receipt 1866 - 1945 V(81) 
 ・村山良二 Czslaw Slania - The great work of his engraving stamps LS(78)
 ・内藤陽介 A History of Hong Kong G(90)
 ・榎沢祐一 Trams – The Origin of Public Transport G(90)
 (以下、文献)
 ・鳴美 『手彫切手』(祖父江義信コレクション) LV(86)
 ・鳴美 『飛脚と郵便』 LV(88)
 ・切手文化博物館 『金井宏之コレクション 日本手彫切手』 LG(95)
 ・スタンペディア 『Stampedia Philatelic Journal』 LV(85)
 ・全日本郵趣連合 『全日本郵趣』 LS(75)
 ・日本郵趣協会 『ビジュアル日本切手カタログVol.1-5』 V(81)
 ・日本郵趣協会 『日本普通切手専門カタログvol.1 戦前編』 V(80) 
 ・日本郵趣協会 『風景印大百科 1931-2017』 S(70)
 ・鳴美 『昭和切手専門カタログ 改訂第3版』 LV(85)

 あらためて、受賞された皆様には、心よりお祝いを申し上げます。

 なお、冒頭に掲げた画像は、インドネシア独立戦争中の1949年、独立側が発行した公用切手のうち、兵士に勲章を授与している場面を描いた1枚です。授賞(授章)のイメージとして持ってきてみました。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | インドネシア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 AA会議博物館に行ってきました!
2017-08-05 Sat 07:32
 切手展も無事に開幕し、きのう(4日)はちょっとした空き時間ができましたので、バンドンの名所、アジア・アフリカ会議博物館に行ってきました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・バンドン会議10周年(会議場)

 これは、1965年に中国が発行した“バンドン会議10周年”の記念切手のうち、会議の行われた建物(Gedung Merdeka:独立ビル)を取り上げた1枚です。ちなみに、画面手前のファサードの現状はこんな感じでした。

      バンドン・独立ビル

 独立ビルは、もともとは、バンドンの上流階級を対象とした“ソシエタイト・コンコルディア(Sociëteit Concordia、コンコルディア協会)”という社交クラブとして利用されていました。コンコルディア協会の最初の建物は1895年に建てられましたが、1926年、バンドン工科大学教授のウォルフ・シューマッハーの設計により、上の画像のファサードに見られるようなアールデコ様式に改築されました。さらに、1940年には、アルベルト・アルベルの設計により、国際様式の部分が付け加えられ(下の画像。上の画像のファサードは画面の左奥にあります)、建物全体がほぼ現在の姿となりました。

      バンドン・独立ビル(増築部分)

 現在の建物の面積は7500平米で、 床材はイタリア産大理石が基本ですが、一部の部屋は板張りで、天上からはクリスタルのランプが吊るされています。

 第二次大戦中の日本占領下では、建物は“大東亜会館”と改称されて文化センターとして用いられていましたが、1945年8月17日の独立宣言後は、独立派の司令部が置かれました。

 1949年12月、インドネシアの独立が最終的に達せられると、建物は“コンコルディア・ビル”として各種催事の会場として利用されるようになりました。

 1954年、インドネシア政府がバンドンで第1回アジア・アフリカ会議の開催を決定すると、コンコルディア・ビルはその会場に指定されます。これは、コンコルディア・ビルが当時のバンドンで最も大きな建物であったことに加え、会議参加者の宿泊先であるサヴォイ・ホテルおよびプレアンガー・ホテルから至近の距離にあったためです。その後、1955年初の改修を経て、建物の名称も現在の“独立ビル”に改称されました。

 アジア・アフリカ会議の終了後、独立ビルはインドネシアの国会に相当する国民協議会の議事堂として用いられていましたが、1971年、国民協議会はジャカルタでの開催が固定されるようになります。そして、1980年、アジア・アフリカ会議25周年を機に、独立ビルは“アジア・アフリカ会議博物館”とすることが決定され、現在に至っています。

 館内に入ると、まずはアジア・アフリカ会議の様子を再現した人形(画像下左)があり、ついで、スカルノと各国首脳の会談の際に用いられた籐椅子(画像下右)や、各種の写真パネルなどの展示がありました。

      アジア・アフリカ博物館・人形  アジア・アフリカ博物館・椅子

 インドネシアが発行した会議関連の切手の展示もありましたが、残念ながら、原画や試刷など、いわゆるアーカイブ・マテリアルはなく、普通の未使用切手と初日カバーだけでした。

      アジア・アフリカ博物館・切手展示

 俺らの展示と併せて、館内では、アジア・アフリカ会議当時の映像なども上映していましたが、個人的には、その上映スペースの前に置かれていた、アンディ・ウォーホール風(?)のスカルノのパネルのインパクトが強烈すぎて、肝心の映像の中身は印象が薄くなってしま居ました。(笑

      アジア・アフリカ博物館・スカルノのパネル

 なお、インドネシアの近現代史に関しては、以前、『蘭印戦跡紀行』と題する拙著を上梓したことがあるのですが、同書では、紙幅の制約もあって、ごく限られた地域しか取り上げることができませんでした。いずれ、今回のバンドン滞在中に見聞したことなども加えた増補改訂版を作れたら・・・と思っています。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 中国:毛沢東時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手歳時記:竿燈
2017-08-04 Fri 07:42
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大阪万博・竿燈

 これは、1970年6月15日に発行された大阪万博の記念切手(第2次)のうち、竿燈とパビリオンを取り上げた7円切手です。

 毎年8月3-6日に秋田県秋田市で行われる“秋田竿燈まつり”は、竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る祭です。

 秋田には、すでに江戸時代以前から“ねぶりながし”の習慣がありました。“ねぶり”とは“眠り”のことで、黄泉や常夜の意味でもあります。そこから、“ねぶりながし”は「黄泉の穢れを祓いて水に流す行事」として、古くは七夕に笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩いたうえ、川へ流して邪気を払っていたといわれています。

 その後、宝暦年間(1751-64)になると、蝋燭が普及したこともあって、外町(町人街)の町人が、五穀豊穣や無病息災などを願い、お盆を前に、門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが、現在の竿燈の原型となりました。

 1789年に津村淙庵が著した『雪の降る道』には、秋田独自の風俗として、陰暦7月6日の“ねぶりながし”が紹介されていますが、同書には、長い竿を十文字に構え、それに燈火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩くようすが記されています。

 ちなみに、“竿燈”という言葉は、1881年に秋田日報を創刊した大久保鐵作が、中国・北宋の禅僧、道原が11世紀初に編纂した燈史『景徳傳燈録』に記述のある“百尺竿頭須進歩”からヒントを得て命名したもので、江戸時代には、提灯をつけた竿は、作り燈籠、ネブリナガシ、七夕などの名前で呼ばれていました。

 しかし、大久保が竿燈という言葉を考案した頃から、皮肉にも、秋田の竿燈は徐々に下火になっていきます。この頃から、市内に電灯がともり、電線が張り巡らされて物理的に竿燈を掲げることが難しくなったためです。このため、1902年には、発祥の地である外町通りでの竿燈が廃止。翌年からは竿燈は楢山グランドに場所を移して行われたものの、下駄履きで歩き回るためにグランドが荒れることから、グランド側は3年間で竿燈に場所を貸すことを拒否するようになりました。そこで、再び、外町が竿燈の会場となったものの、電線の折損事故が絶えず、1907年には千秋公園二の丸が会場となります。

 こうして、一時は存続の危機に瀕した竿燈でしたが、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に台覧の栄に浴し、また、大正時代に入ると他県からの観光客も訪れるようになったことで、次第に活気を取り戻していきます。こうした事情を踏まえて、1931年には秋田市竿燈会が結成されました。

 その後、1937年に日中戦争(支那事変)が始まると、1945年の終戦まで竿燈は中断されましたが、終戦後すぐに早坂吉助会長以下、竿燈会は竿燈の復活に向け動き出し、早くも翌年にはまつりを復活させます。ただし、当時は提灯に必要な紙や油も不足していたため、1946年のまつりの開催は、例年より大幅に遅い、9月29日となりました。

 復活当初は1日だけだった竿燈まつりは、1954年からは2日間、1964年からは3日間に拡大され、1988年以降は、現在と同じ4日間となっています。この間、1970年の大阪万博に際しては、会場内お祭り広場で披露された日本各地の祭りを代表して、記念切手にも取り上げられ、その知名度は全世界に広がることになりました。

 ちなみに、竿燈は大きさにより、大若、中若、小若、幼若に分けられます。提灯の数は、大若と中若が最上段2個、二段目4個、3-8段目6個、最下段(9段目)4個、小若と幼若は最上段2個、2段目-6段目4個、最下段(7段目)2個という構成ですが、今回ご紹介の切手では、デザイン上の都合から、最下段に6個の提灯が下げられています。
 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 きょうから<Bandung 2017>
2017-08-03 Thu 02:48
 きょう(3日)から7日まで、インドネシア・バンドンのトランス・ステュディオ・コンヴェンション・センター(Trans Studio Convention Centre)で、世界切手展<Bandung 2017>が開催されます。というわけで、同展のロゴマークと併せて、この切手をご紹介します(画像はクリックで拡大されます)

      バンドン展・ロゴ  沖縄・オオゴチョウ

 左は、今回の切手展のロゴマークで、開催地のバンドン市の花“オオゴチョウ”をデザイン化したものだそうです。右側には、そのオオゴチョウを取り上げた1971年発行の琉球切手を貼っておきました。ちなみに、沖縄では、オオゴチョウは、サンダンカ、デイゴとともに三大名花として“県の花”にも指定されています。

 オオゴチョウは西インド諸島原産とされるマメ科ジャケツイバラ属の植物で、高さは2-5m。枝分かれは少なく、幹には鋭い棘があり、枝先に円錐花序を出し、赤橙色の花をつけます。花径は4cmほどで、雄しべと雌しべが長く突き出して蝶が舞うように見えることから、和名の“黄胡蝶”の名がつきました。

 さて、インドネシアで世界切手展が開かれるのは、2012年にジャカルタで開催された<INDONESIA 2012>以来5年ぶりのことで、展示フレーム数は約1900フレーム。日本からは、文献を除き、19作品・119フレームが出品されており、審査員として正田幸弘さんと井上和幸さん(アプレンティス)が、コミッショナーとして山崎好是さんと不肖・内藤が参加しています。

 日本からの作品の搬入は、昨日、出品者の伊藤純英さん、伊藤文久さん、増山三郎さんのご協力も得て無事に済ませ、無事、会場に並んでいます。下左の写真は、ビンルームでの作品の際のチェック風景、同右は、展示作業終了後、今回の日本からの出品の目玉である“龍500文逆刷”を含む山田コレクションの前で撮影したものです。

      バンドン展・ビンルーム  バンドン展・展示作業

 きょうは午前9時からコミッショナーのミーティングがあり、その後、オープニング・セレモニーに出席します。なお、受賞結果につきましては、公表可能な状況になり次第、このブログでもご報告する予定ですので、しばらくお待ちください。

 【追記】
 3日午前10時から行われたオープニング・セレモニーでは、冒頭、切手展の成功を祈願してコーランの朗誦がありました。

      バンドン展・コーラン朗誦

 イスラム圏で開催された国際切手展には、過去にも何度か参加しましたが、オープニング・セレモニーでコーランの朗誦を見たのは今回が初めてです。前回、2012年の切手展の際には、ジャカルタ市内のコンビニで自由にビールが買えましたが、2015年の法改正でコンビニでのビールの販売が禁止となったとかで、食生活にはちょっと不便を感じているのですが、そうしたことと併せて考えてみると、インドネシア社会全体で、イスラム的な価値観を重視傾向が強まってきていることの表れということなのかもしれません。ちなみに、今回は、セレモニーの最後に、関係者が書類にサインをして、それを参加者に披露するというのが開会の儀式で、テープカットをしたり、銅鑼を叩いたり…といったわかりやすいアクションはありませんでした。

      バンドン展・オープニング


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 7月27日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第6回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、高校野球があるため、少し間が開いて8月24日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、27日放送分につきましては、8月3日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 琉球・沖縄 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
BACK | 郵便学者・内藤陽介のブログ | NEXT
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/