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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ロンボクで大規模地震
2018-08-06 Mon 10:13
 きのう(5日)、インドネシアのロンボク島でマグニチュード6.9の大規模な地震が発生。国家災害対策庁の報道官は、けさの時点で、82人が死亡、数百人が負傷したと発表しました。また、この地震により、隣接するバリ島でも被害が発生しています。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タマン・マユラ絵葉書・絵面

      タマン・マユラ実物

 これは、1904年8月、オランダ領東インドからオランダ宛に送られた絵葉書、ロンボク島マタラムの中心部にある旧王宮、タマン・マユラの入口が取り上げられています。ついでなので、2012年にロンボクを訪れた際、ほぼ同じ構図で撮影した写真も貼っておきました。ちなみに、絵葉書の裏面はこんな感じです。

      タマン・マユラ絵葉書・裏面

 もともと、ロンボク島にはササク人が住んでいましたが、17世紀に入ると、島の西部はバリ人の、東部はスラウェシ(セレベス)のマカッサル人の支配下に入り、18世紀中ごろまでにはバリ人がマカッサル人を駆逐して全島を支配するようになりました。

 マタラムの中心部に残るタマン・マユラは、こうした状況の下で、1744年、バリに割拠していた8王朝のひとつ、カラガスン王朝のチャクラヌガラ王が建造したもので、“マユラ”は孔雀の意味です。これは、かつての宮殿の敷地内に、スマトラの王から贈られた孔雀が闊歩していたことに由来します。また、人口の湖に浮かぶ正殿は王側の会議場や裁判所として用いられており、その構造から“水の宮殿”とも呼ばれています。

 ロンボク西部はバリに隣接していることもあって、バリとの交流も盛んだったことから、バリ人の支配者とササク人は比較的良好な関係にありましたが、東部ではバリ人に対する反感が根強く、しばしば反バリ人の反乱も起きていました。

 こうした背景の下、1891年、バリ島内での抗争の余波で、ロンボクのバリ人支配者であったアナック・アグン・グデ・ヌグラ・カランガスンがササク人に対して数千人の兵士を提供するよう求めたところ、ロンボク東部で反バリの反乱が発生。このため、バリのカランガスン王朝はロンボクに1万を超える大軍を送り込み、バリ人とササク人の間で激しい戦闘が行われました。

 ロンボクでの反乱が起きる以前から、オランダはバリ島への進出を加速させており、すでに、1846年には、前年(1845年)に島内のブレレン王とカランガスン王が同盟を結んでオランダに対決する姿勢を見せたため、難破船の引き上げを口実に、バリ北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。その後もバリを攻撃し、1849年、バリ北部を制圧しシンガラジャに植民地政庁を設置するなど、バリの植民地化を進めていました。ちなみに、オランダがバリ島を完全に制圧したのは、1908年のことで、それまで、バリ側はオランダに対して抵抗を続けています。

 こうした背景を踏まえて、1894年2月、ロンボクのササク人はバリ人と戦うため、“敵の敵”であるオランダに支援を要請。これを受けて、バリ以東への進出を進めていたオランダはササク人を支援してバリ人を制圧することを決定し、シンガポールからバリへの武器の輸入をストップさせました。

 しかし、武器の禁輸措置は徹底されず、マタラムのバリ人はオランダの降伏勧告を受け入れなかったため、1894年7月、オランダはマタラムに出兵。オランダ=ササク連合軍に対して、マタラムのバリ人は激しく抵抗し、8月25日に行われたタマン・マユラの攻防戦では、連合軍側に500名を超える戦死者が生じ、P.P.H.ファン・ハム将軍も捕えられて処刑されました。

 その後、オランダ軍はいったん撤退し、兵員・装備を増強したうえで11月にマタラムを再攻撃。同月末までにバリ人勢力を殲滅し、ロンボク全島を制圧して、オランダ領東インドに編入しました。

 ちなみに、タマン・マユラ正殿の入口には、もともと、獅子とヒンドゥーの神像、大砲が左右に配置されていましたが、オランダによる占領後、バリ人の再度の抵抗を恐れたオランダ側によって撤去されてしまいました。このため、今回ご紹介の絵葉書の写真では大砲は見えません。しかし、独立後に本来の姿に復元されたため、2012年の写真では奥の方に大砲が見えます。次いでですので、下に大砲と神像の部分を撮影した写真を貼っておきます。

      タマン・マユラ大砲

 ロンボク島といえば、僕にとっては、日本占領時代に太陽加刷切手が発行された場所として現地を訪ね、そのいきさつを拙著『蘭印戦跡紀行』の一章としてまとめたことがあり、思い出深い場所です。それだけに、先月29日に続いて、1週間で2度の大規模地震が発生しているのは非常に気がかりです。亡くなられた方の御冥福と、負傷された方の一日も早い御快癒、そして、一日も早い被災地の復興を心よりお祈りしております。

 
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 切手歳時記:甲子園
2018-08-05 Sun 00:32
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第50回全国高等学校野球選手権大会(連刷)

 これは、1968年8月9日に発行された“第50回全国高等学校野球選手権大会”の記念切手です。

 “夏の甲子園”こと全国高等学校野球選手権大会のルーツは、1915年8月、大阪朝日新聞社主催、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで行われた“第1回中等学校優勝野球大会”です。

 明治の末以降、郊外から都市部への通勤・通学が増えると、彼らを対象に民間の郊外鉄道が生まれました。鉄道会社は、通勤・通学客が激減する休日対策として、沿線に娯楽施設を設け、需要の掘り起こしに努めます。かつて、プロ野球チームのオーナーに、近鉄、国鉄、南海、阪急など鉄道会社が多かったのは、野球がそのための重要なコンテンツだったからです。

 豊中での野球大会も、そうした発想の下、箕面有馬電気軌道が大阪朝日新聞に持ちかけて実現に至ったものですが、肝心のグラウンドが手狭だったため、1917年、会場は阪神電鉄が所有する鳴尾運動場に移されます。

 さらに、武庫川の改良工事で、支流の枝川・申川が埋め立てられると、その河川敷跡を購入した阪神電鉄は、旧枝川・旧申川の分流点があった付近に大野球場を建設。野球場は、1924年、すなわち、十干十二支の始まりにあたる甲子の年に完成したことから、甲子園球場と命名され、同年開催の大会から使用されました。

 以後、“夏の甲子園”は風物詩として定着し、1941-45年の戦争による中断を挟んで、2018年8月5日、第100回大会が開幕します。なお、学制改革に伴い、現在の“全国高等学校野球選手権大会”となったのは1948年のことで、それから20年後の1968年の第50回大会に際しては、優勝旗を背景にした投手と、記念の人文字を描く記念切手も発行されました。(今回ご紹介の切手です)

 ところで、切手に描かれた球児たちは“甲子園の土”を記念に持ち帰ったはずですが、そもそも、“甲子園の土”を持ち帰る習慣がいつ始まったのかは、定かではありません。

 打撃の神様・川上哲治は、熊本工業の投手として出場し、準優勝した1937年、他の選手の真似をして“甲子園の土”をポケットに入れ、母校の練習場にまいたというから、戦前から、すでに、一部で“甲子園の土”を持ち帰ることがあったようです。

 終戦直後の1946年には、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中高)の選手達が、次回また返しに来るという意味で足下の土を持ち帰ったとの記録があります。ただし、当時の甲子園球場は米軍が接収しており、大会は阪急西宮球場で行われたから、これは“甲子園の土”ではありません。

 ちなみに、文献上の記録では、1949年、準々決勝で敗れた小倉北の投手、福嶋一雄がホームベース後方で無意識に足元の土を摘んでポケットに入れたのを、帰郷後、大会役員からの速達で気付き(本人よりも先に自宅に届いたらしい)、ユニフォームから取り出して自宅の植木鉢に入れたのが“甲子園の土”を持ち帰った最初の例とされています。

 しかし、“甲子園の土”を一躍有名にしたのは、1958年、復帰前の沖縄から初出場した首里の選手たちが、1回戦で敦賀(福井)に敗れ、甲子園の土を持ち帰ろうとしたものの、検疫の関係で沖縄に持ち帰れなかったというエピソードでしょう。

 “外国”の土を持ち込もうとすれば、検疫で没収・処分されるのは万国共通で、当時の沖縄の係官は申し訳なさそうに「規則なので…」といって没収したそうです。しかし、この一件は、沖縄の悲劇を象徴するものとして大々的に報じられ、“甲子園の土”が広く知られるようになるとともに、沖縄の祖国復帰運動を加速させる契機になったともいわれています。

 
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 ジンバブエ大統領選、現職当選
2018-08-04 Sat 10:24
  ジンバブエの選挙管理委員会は、きのう(3日)、7月30日投票の大統領選挙で、現職のムナンガグワ大統領が勝利したと発表しました。ただし、焦点だった自由・公正な選挙の実施には疑問が残り、野党勢力は選挙の不正を主張。首都ハラレでは治安部隊と野党支持者らが衝突し、軍の発砲で死者も出ています。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

      ローデシア・グレートジンバブエ遺跡

 これは、ローデシア時代の1970年に発行された“グレート・ジンバブエ遺跡”の切手です。

 グレート・ジンバブエ遺跡はジンバブエ高原の南端に位置しており、周囲の集落を含めると東西1.5km、南北1.5kmの推定面積約2平方キロという南部アフリカ最大の石造建築物群で、世界遺産にも登録されています。なお、“ジンバブエ”は、現在のジンバブエ国家で多数派を占めるショナ人の言語、ショナ語で“(王宮を含意する)石の家”の意味で、現在の国名は、グレート・ジンバブエ遺跡に由来するものです。

 遺跡は、アクロポリス(丘上廃墟)、谷の遺跡、240mの花崗岩の壁で囲まれた王宮跡(グレート・エンクロージャー)から構成されており、切手に取り上げられている塔は高さ9mで王宮跡にそびえていますが、その目的は定かではありません。

 現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに相当する地域は、英国支配下の1953年、ローデシア・ニヤサランド連邦として統合されました。しかし、連邦の経済政策が白人入植者の集中する南ローデシア偏重であったため、黒人民族主義者の不満は根強く、内部の対立も激しくなって1963年に連邦の維持は不可能となり、翌1964年7月にニヤサランドがマラウイとして、同年10月には北ローデシアもザンビアとして独立しました。

 一方、連邦の解体以前から、南ローデシアでは、ソ連の支援を受けたジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)や中国の支援を受けたジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)が独立闘争を展開していましたが、1964年、植民地政府首相に就任したイアン・スミスは白人による支配体制の維持を主張して黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧します。

 これに対して、英国は周辺国との足並みをそろえて、黒人を含めた参政権を保障したうえでの独立を南ローデシアにも求めましたが、白人政権はこれを拒否。1965年、英本国から派遣されていた総督を追放し、白人中心のローデシアの独立を宣言しました。

 当然のことながら、スミス政権に対しては黒人の抵抗運動が組織されたましたが、ローデシア政府は国民民主党(NDP)の活動を禁止したのをはじめ、黒人による独立運動を徹底的に弾圧。これに対して、国際社会はローデシア政府を非難し、1966年以降、国連は経済制裁を科しましたが、南アフリカ共和国やポルトガル領モザンビークはローデシア政府を支援します。これに対して、中ソの支援を受けた黒人が武装闘争を展開し、ローデシアは内戦状態に突入しました。

 当初、ローデシア紛争は白人政府軍が圧倒的に優位でしたが、1975年にモザンビークが独立して反政府側を支援するようになったころから形勢は次第に逆転。その後、米国の圧力を受けた南アフリカ大統領、バルタザール・フォルスターが内戦の調停に乗り出し、1978年3月3日、スミス政権と、アベル・ムゾレワ司教ら黒人穏健派指導者の間で停戦協定が調印されました。

 協定の結果、暫定政権樹立を準備するための議会選挙が実施されることになり、暴力を放棄した唯一の黒人政党・統一アフリカ民族会議(UANC)が勝利しました。しかし、スミス政権はこの結果を認めず、居座りを図ったため、1979年9月、英国政府の呼びかけで、ジンバブエ・ローデシアの全政党の参加によるランカスター・ハウス協定が調印され、100議席中、20議席を白人の固定枠とすることで合意が成立、1980年2月の総選挙を経て、1980年3月4日、ムガベが初代首相に就任。4月18日、黒人国家・ジンバブエが正式に独立を達成しました。

 
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 韓国カルト、フィジーで400人監禁暴行
2018-08-03 Fri 04:26
 韓国の警察当局は、1日、南太平洋のフィジーで信者約400人を監禁し、儀式と称して暴行していたとして、カルト教団“グレースロード教会”の創始者、シン・オクジュほか3人の教団指導者が仁川国際空港に到着したところを逮捕しました。というわけで、フィジーに関連して、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィジー・エクスプレス(1ペニー)

 これは、1870年にフィジー・エクスプレス社が発行した1ペニー切手です。

 1860年代までのフィジー諸島では、1858年に英領事館がきわめて限定的な郵便サーヴィスを抵抗したものの、長らく英植民地当局による郵便制度は実施されておらず、主としてシドニーを往来する商船などに託して、不定期に手紙が送られているだけでした。

 こうした状況の下、1869年9月、オヴァラウ島のレヴカで新聞『フィジー・タイムス』を創刊したG.L.グリフィスは、かつての領事館郵便の制度では、新聞の配達には、あまりにも信頼性に乏しいと考え、1870年11月、『フィジー・タイムス』の配達を行うとともに、一般の郵便需要を満たすことを目的として“フィジー・タイムス・エクスプレス”を創業しました。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの郵便取扱所は、1870年11月1日の創業時で9ヵ所でしたが、同年11月5日と1871年2月8日にはそれぞれ2ヵ所、6月14日には1ヵ所が新たに設置され、最終的に14ヵ所が設けられました。その内訳は、レヴカの本局のほか、ヴィティ・レヴ島に6ヵ所、ヴァヌア・レヴ島に4ヵ所、タヴェウニ島に2ヵ所、カンダヴ島とヴァヌア・バラヴュー島に各1ヵ所でした。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの切手は、グリフィスの新聞印刷所で印刷され、シートは6×4の24面です。ただし、シートの中には異なった額面が混在しています。すなわち、最初のシート構成は、横1段の6枚ごとに額面が異なっており、上から6ペンス、1シリング、1ペニー、3ペンスとなっていました。その後、2回目のシート構成は、上の3段は最初と同じですが、最下段の左3枚が3ペンス、右3枚が9ペンスという構成に変更されています。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの経営は順調で、利用者も次第に増加していきましたが、そのことを不快に思った英植民地当局はこれを廃止させるべく、郵便局長を任命し、官営郵便に乗り出します。これを受けて、フィジー・タイムス・エクスプレスの郵便事業も1872年には終焉を迎えました。


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 マチュ・ピチュ行き鉄道で追突事故
2018-08-02 Thu 01:28
 おととい(7月31日・現地時間)、ペルーのクスコ近郊から世界遺産のマチュ・ピチュ遺跡に向かっていた列車が別の列車に追突し、外国人観光客ら30人以上がケガをしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ペルー・マチュピチュ発見75年

 これは、1986年にペルーが発行した“マチュ・ピチュ発見75周年”の記念切手で、遺跡の全景が取り上げられています。

 マチュ・ピチュは、ケチュア語で“年老いた”の意味で、もともと、“年若い峰”を意味するワイナ・ピチュへと連なる標高2795メートルの尾根のことです。遺跡は、山裾からはその存在を確認できないことから“空中都市”とも呼ばれており、建設された年代は石段の組み方などから1450年頃、皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられています。また、人が住んでいたのはそれからおよそ一世紀の間だったと推定されています。インカ帝国の滅亡後は、ながらく忘れられた存在となっていましたが、1911年7月24日、米国の探検家ハイラム・ビンガムによって発見され、その存在が世界的に知られるようになりました。

 革命家チェ・ゲバラは、ブエノスアイレス大学医学部在学中の1952年3月、友人のアルベルト・グラナードとともに南米大陸を縦断している過程で、クスコとマチュ・ピチュに立ち寄り、大いに感動したことを日記に書き記しています。アルゼンチンの白人上流社会出身のゲバラにとって、ペルーは「スペイン人による征服以前の時代の思い出が滲み出ている」場所として、“ラテンアメリカ”を意識する契機となり、翌1953年9月にマチュ・ピチュを再訪した際には、「南アメリカの人民よ、過去を再征服せよ」とその感動を記しています。

 また、ゲバラは、青年期の2度の南米大陸縦断の旅からキューバでのゲリラ戦争を経てボリビアで非業の死を遂げるまで、その日記が世界記憶遺産に登録されるほどの名文家として知られていますが、その文筆家としての社会的デビューは、1953年11月、雑誌『シエテ』に寄稿したマチュ・ピチュについての文章でした。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、このあたりの事情についても詳しくまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ヒナ伝説とウナギの魔物
2018-08-01 Wed 01:09
 きょう(1日)は、土用の丑の日(二の丑)。というわけで、毎年恒例、ウナギに関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      仏領ポリネシア・ヒナ伝説

 これは、1988年に仏領ポリネシアが発行した“ポリネシアの伝説”の切手のうち、タヒチのヒナ伝説を取り上げた1枚で、右下にウナギの魔物が描かれています。

 昔、ある島にヒナという美しい女王がいました。ある日、ヒナが川辺で沐浴をしていると、川の主であるウナギの魔物がその姿を見て彼女に一目ぼれし、彼女をさらってしまいます。そこで、眉目秀麗な島の勇者が救出に向かい、熾烈な戦いの末にウナギの首を切り落としてヒナを救出しました。勇者に切り落とされて地面に落ちたウナギの首は、最後に、ヒナに「おまえは俺のことを蛇蠍のごとく(確かに、蛇には似ていますな)嫌っているが、俺が死んだら、毎日俺に接吻をするようになるはずだ」と言い残してこと切れます。

 さて、ウナギの魔物を倒したのち、2人はウナギの首級を草で編んだ籠に入れて村へ帰ろうとしましたが、途中、強烈な睡魔に襲われます。そこで、ウナギの首を側の草むらに置き、ひと眠りしたところ、首を置いた場所から見たこともない巨大な木が生えていました。その木は、ウナギの胴のように幹には一本の枝もなく、大きな青々した葉を空高く広げ、見たこともない大きな丸い実がたわわに実っていました。これがココナッツの起源とされています。

 ココナッツの実には甘くて冷たい果汁がたっぷり入っていたため、それを気に入ったヒナは毎日、ウナギの化身であるココナッツの実に口をつけて果汁を飲むようになり、ウナギの執念は実ることになりました。

 以上がタヒチのヒナ伝説ですが、トンガクック諸島でも、ヒナと関係のあったウナギが首を落とされ、その首級から生えてきた木がココナッツになったという伝説があります。地域によっては、ウナギは悪役ではなく、ヒナと相思相愛で身を挺して水害から人々を守ったというケースもあるのですが、いずれの場合も、ココナッツはウナギの頭から生じたもので、それゆえ、ココナッツの実はウナギの頭に形が似ているという、最後のオチは共通です。

 まぁ、ココナッツ・ジュースが美味しいということは否定しませんが、個人的には、首を落とされた後の魔物の身体の肉がどんな味だったのか、そちらの方がちょっと気になりますな。


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 世界の切手:ブルガリア
2018-07-31 Tue 01:30
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年7月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブルガリア・軛の下で

 これは、ブルガリア現代文学の祖とされるイヴァン・ヴァゾフの代表作『軛の下で』を取り上げた1枚です。
 
 イヴァン・ヴァゾフは、1850年、オスマン帝国支配下のソポトの商家に生まれました。幼少期から文学に親しみ、1870年、商業を学ぶため、ワラキアのオルテニツァ(現ルーマニア)の商人である叔父の元へ送られましたが、商業には身が入らず、ブルガリア人亡命コミュニティに参加し、民族活動家に強く感化されました。

 1876年、ブルガリアではオスマン帝国からの自立を目指す4月蜂起が発生するものの失敗。放棄にも関与していたヴァゾフはブカレストに亡命し、偽名を使って『プリャポレツ・イ・グスラ』 、『ブルガリアの悲嘆』等の詩集を刊行。1877-78年の露土戦争の結果、ブルガリアが解放されると、東ルメリ自治州の州都プロブディフやロシア帝国支配下のオデッサなどでの文筆活動を経て、1889年、ブルガリアに帰国し、ソフィアに定住。旺盛な執筆活動のかたわら、1894年に人民党のコンスタンティン・ストイロフ内閣が発足すると、教育大臣にも任命されました。第一次大戦後の1921年没。

 今回ご紹介の切手の題材となっている『軛の下で』は、1888年、オデッサで執筆された作品です。物語は、オスマン帝国の支配下のブルガリアを舞台に、親トルコ派の上流階級と独立派の青年たちの交流や、失敗に終わった1876年の“4月蜂起”について史実を踏まえて描いたもので、ブルガリア帰国後の1894年に発表され、1910年に戯曲化されました。ブルガリアを砕氷する古典的な作品として世界的な評価を得ており、日本語を含む各国語に翻訳されています。
 
 さて、『世界の切手コレクション』7月25日号の「世界の国々」では、第二次大戦中、ブルガリアが枢軸国に参加して戦った歴史的背景についてまとめた長文コラムのほか、女子レスリングのスタンカ・ズラテヴァチョウザメアイスクリーム、の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は8月1日に発売予定の8月8日号でのリベリアの特集です。こちらについては、発行日の8月8日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 カンボジアで総選挙
2018-07-30 Mon 03:35
 きのう(29日)、カンボジア総選挙(下院、定数125)の投開票が行われ、与党・カンボジア人民党のソク・イーサン広報官は「投票数の80%を獲得した」と発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・UNTAC(武装解除)

 これは、1993年にカンボジアが発行した“国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)”の切手のうち、UNTACによる武装解除を描いた1枚です。

 1991年10月23日、カンボジア内戦を終結させるための「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)が調印されました。同協定にもとづき、国際連合事務総長の下、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立するまでの間、カンボジアの統治を担う機関として設立されたのがUNTACで、自衛隊にとっては初の国連PKOへの参加となりました。

 すでに、1991年10月、国連はカンボジア先遣隊 (UNAMIC) を設立していましたが、UNTACの任務はこれを拡大し、選挙の組織・管理を初めとして、停戦の監視、治安の維持、武装勢力の武装解除、難民・避難民の帰還促進など、多岐に渡る業務を担当。1992年3月15日から現地に展開し、UNAMICはこれに改編・吸収されました。

 その後、1993年5月、UNTAC監視の下、憲法を制定するための国民議会選挙が行なわれてフンシンペックが第一党となり、9月23日に新憲法が公布され、翌24日にはノロドム・シハヌークが国王に復位してカンボジア王国が再建されたことを受け、UNTACは同日付けで任務を終了。同年末までに撤収されしています。

 さて、今回の選挙は、1993年の制憲議会選挙から数えて通算6回目となります。前回2013年の選挙では、全議席(当時の定数は123)を人民党(68議席)と野党のカンボジア救国党(55議席)の2党が分け合いったほか、昨年(2017年)の地方選挙でも救国党が躍進。1998年以来の長期政権を担ってきたフン・セン首相は、これに危機感を抱き、救国党の党首を逮捕し、最高裁は同党に解散を命じるなど、強引な手法で野党を抑え込みました。さらに、今月27日以降は、政権に批判的な複数のメディアのウェブサイトの閲覧できなくなっていました。

 このため、元救国党幹部らは逃亡先の国外から、国民に投票ボイコットを呼び掛けていましたが、人民党は選挙の“正統性”を示すため、国民に対して投票を行くようさまざまな圧力をかけたため、投票率は前回の69.61%を大きく上回る80%超(選管発表による)を記録。これにより、計算上は、人民党の獲得議席も100議席となる見通しだそうです。

 ただし、上述のような状況のため、米国やEUは選挙支援を停止。わが国も、投票箱提供などの選挙協力を続けるものの、監視員派遣は見送り、最大野党の解体などについて懸念を伝えています。UNTAC監視下の政権選挙から、ことしはちょうど25周年ですが、その節目の年に、“自由で公正な選挙”がカンボジアで行われなくなってしまったのは、何とも残念な話ですね。


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 羽衣伝説はレイプ犯の物語か
2018-07-29 Sun 01:21
 韓国版の羽衣伝説として知られる「仙女と木こり」について、鄭鉉栢・女性家族部長官が、「この物語の主人公は天女を誘拐したレイプ犯だ」と述べ、各方面から批判を受けているそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      韓国・仙女と木こり①

 これは、1970年3月5日、韓国が民話シリーズ第4集として発行した「仙女と木こり」のうち、主人公の木こりが水浴する3人の仙女のうち1人の羽衣を隠す場面が描かれています。1973-75年に発行された日本の昔ばなしシリーズは、3種の組み合わせで物語の序盤・中盤・終盤の各場面を取り上げた構成になっていますが、韓国の民話シリーズでは1話につき4種の構成で物語のあらすじを表現するスタイルになっています。今回ご紹介の「仙女と木こり」の場合は、上に挙げた切手に続いて、羽衣を失い、天に帰れなくなった仙女が木こりと夫婦になり、2人の子供をもうけて暮らす場面が取り上げられています。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり②

 こうして、木こりは家族4人で幸せに暮らしていましたが、あるとき、酒に酔って妻に自分が隠した羽衣を見せ、事実を打ち明けてしまいます。すると、彼女は元の仙女に戻り、羽衣を身に着けると2人の子供とともに天に帰って行きました。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり③

 最愛の妻を失った木こりは悲しみのあまり、まもなく亡くなりましたが、生前の善行のゆえに天国へ行き、妻子と再会して幸せに暮らすことになりました。なお、物語の結末については、木こりは七夕の日のみ家族との再会が許されたなどのヴァリエーションもあります。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり④

 さて、「仙女と木こり」は、上述のように、いわゆる羽衣伝説の1バージョンであり、類似の民話は全世界のいたるところで古くから多くの人に親しまれていますが、一国の現職閣僚が、左派・リベラル的な視点から、それを公の取り上げて批判するケースなど、今回の韓国のケース以外には、寡聞にして聞いたことがありません。

 ところが、鄭長官は、先日、あるセミナーの席上、「仙女と木こり」の木こりが池で水浴びをしていた天女の衣を取り上げてしまう点を問題にし、「天女や、木こりとの間にできた2人の子どもたち、そして天女の両親の側からすると、この木こりは誘拐犯であり、レイプ犯だという見方もできる」、「この点は、男女平等を実現するという文脈では変更されるべきだろう」と主張。これに一部のフェミニスト活動家たちが同調したことから、過激なフェミニズムが猖獗を極めている現状を苦々しく思っていた多くの国民が反発を示したというわけです。

 ちなみに、元判事で弁護士のファン・ジュミョン氏は、「昔話の登場人物をそのような凶悪犯罪で非難するのは、ばかげている」としたうえで、「法律に照らし合わせて言えば、木こりが天女に性行為や同居を強要したことを示す証拠をこの物語から見つけることは困難だ」と結論付け、長官のような立場に立つなら、彼女こそ、木こりから名誉棄損で訴えられてもおかしくないと述べています。

 まぁ、鄭長官の「仙女と木こり」批判はとても正気の沙汰とは思えない内容なのですが、こういう極端な思考回路の持ち主が、現職の韓国政府閣僚として、いわゆる慰安婦問題を担当しているというのは、何とも頭の痛い話ですな。


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 北朝鮮、米兵遺骨55柱を返還
2018-07-28 Sat 04:38
 北朝鮮は、昨日(27日)、朝鮮戦争の休戦協定締結から65周年の記念日にあわせて、朝鮮戦争で戦死した米兵の遺骨55柱を米側に返還しました。というわけで、朝鮮戦争に参加した米兵関係のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米軍・12月の撤退  米軍・12月の撤退(裏面)

 これは、1950年12月1日、米ヴァージニア州のスタントンから朝鮮に派遣されていた米兵宛に送られたカバーです。当初の宛先は、釜山に置かれていた第59野戦郵便局気付となっていますが、名宛人の所属部隊が38度線を越えて北上したことに伴い、郵便物の宛先も平安南道の黄海に面した粛川(第24野戦郵便局)に変更されています。ちなみに、粛川は、隣接する順川とともに、国連軍が38度線を越えて北上していた1950年10月20日から23日まで、北朝鮮政権首脳と北朝鮮軍主力の退路遮断、平壌付近に拘置されている国連軍捕虜の救出を目的として、大規模な空挺作戦が展開された場所でした。

 しかし、郵便物が朝鮮半島に到達したときには、いわゆる“12月の撤退”が始まっていたため、名宛人と彼の部隊は38度線以北から退避。その際、おそらく名宛人も負傷したらしく、郵便物は各地を転々とした後、最終的に、朝霞(第613野戦郵便局)を経て、名宛人が収容されていた第361野戦病院に送られています。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安保理は北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領しました。

 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認します。

 この時点では、トルーマンは、地上軍を本格的に投入して、朝鮮戦争に全面的に介入すれば、ソ連の介入を招きかねないとして慎重な姿勢を取っていました。

 これに対して、日本占領の総司令官として東京にいたマッカーサーは、6月29日、陥落直後のソウルを漢江南岸から視察。本国政府に地上軍の本格的な投入を主張し、このマッカーサー報告を受けて、翌30日、トルーマンも地上軍の投入を決断します。

 もっとも、急遽、朝鮮半島に派遣された米国軍第24師団(開戦当時は九州に駐留していました)は準備不足のためもあって、7月5日に行われた烏山の戦闘で北朝鮮側にまさかの敗北を喫してしまいました。こうした状況の中で、7月7日、国連安保理は国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任します。

 一方、首都・ソウルを陥落させた朝鮮人民軍は、その後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領。この間、国連軍の創設を受けて、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山への移転を余儀なくされました。

 その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領。こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになります。

 さて、1950年8月初の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。

 一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、国連軍は徐々に戦力を回復。こうした状況の中で、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川への上陸作戦を敢行します。

 1950年9月上旬の時点で、北朝鮮の主力は洛東江戦線に集中しており、仁川の防御は手薄になっていたこともあって、マッカーサーの奇襲作戦は見事に成功。1950年9月15日、米国第1海兵師団の1個大隊が仁川市対岸の月尾島に上陸を開始し、国連軍は翌16日までに仁川を奪還してソウルに向けて進撃し、17日には国連軍が金浦空港を奪還しました。

 一方、釜山橋頭堡をめぐる洛東江戦線では、米第8軍が仁川上陸に呼応して攻勢に転じ、大邱=金泉=大田=水原のラインに沿って朝鮮人民軍を撃滅する作戦を開始。9月21日以降、退路を絶たれた朝鮮人民軍は総崩れとなりました。

 仁川に上陸した米国海兵師団は、ただちにソウルへの進撃を開始し、9月20日には漢江の渡河に成功。激しい攻防戦の後、25日、米軍はようやくソウル西側の高地帯と南山を占領。9月28日にはソウルの奪還に成功し、中央政庁には、ふたたび、太極旗が掲げられました。

 国連軍のソウル奪還後、米国政府の内部では38度線を突破するか否か、意見が分かれましたが、最終的に、この問題はマッカーサーの判断に委ねられます。その結果、10月1日、韓国第1軍団が東海岸で38度線を突破すると、マッカーサーは北朝鮮に降伏を勧告。翌2日には国連軍に38度線を越えて北進することを命じました。さらに、7日には国連安保理が国連軍の北進を追認。9日には西部の開城付近で米第1軍団が38度線を突破し、翌10日には韓国第1軍団が東海岸の元山を占領します。

 その後も韓国・国連軍は北上を進め、10月17日には韓国第1軍が咸興・興南を、米第1軍団が沙里院を、それぞれ占領。19日には韓国第1軍団が平壌市内に突入し、翌20日までに国連軍が平壌占領を完了しました。その後も韓国・国連軍は北進を続け、10月26日、韓国第6師団の第7連隊が、ついに楚山で鴨緑江に到達しました。

 これに対して、北朝鮮国家が潰滅する可能性が出てきたことで、10月8日、中国は「唇滅べば歯寒し」として、朝鮮戦争への参戦を決定。「抗美援朝 保家衛國」をスローガンに中国人民志願軍を派遣します。

 国共内戦の経験からゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。これにより、国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。

 これが、いわゆる“12月の撤退”です。

 さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退しました。

 その後、韓国・国連軍はそれまでの正面対決方式を止め、中国側の攻勢が始まってから1週間は緩やかに後退して中国側の食糧・弾薬が尽きるのを待ち、攻勢が弱まった後、相手に補給と休養の隙を与えず、戦車を集中的に用いて反撃する作戦に変更。1951年2月には中国側の攻勢を撃退し、2月20日からは北進に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保しました。

 以後、韓国・国連軍は1953年7月の休戦までソウルを確保し続けるものの、戦況は北緯38度線付近で一進一退の膠着状態が続くことになります。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
      

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