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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手歳時記:南部鉄器
2018-10-07 Sun 01:23
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年10月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、10月6-7日に岩手県奥州市で開催される“南部鉄器まつり”にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      伝統的工芸品・南部鉄器

 これは、1985年8月8日に発行された伝統的工芸品シリーズ第5集のうち、“南部鉄器”の切手です。

 南部鉄器は、鉄に恵まれた北上川沿いの岩手県盛岡市、奥州市水沢区で作られる鉄器の総称で、歴史的には、水沢の方が歴史があります。

 奥州の鋳物は、平安時代後期、江刺の地にいた藤原清衡が近江国より鋳物師を招いて始めたもので、それが南下して羽田(現在の水沢)に伝わりました。当初、鋳物師は“歩き筋”と呼ばれ、必要に応じて各地を転々と移動していたため、清衡に従って平泉に移り、中尊寺の備品なども鋳造していました。

 奥州藤原氏は、三代当主の秀衡が、1185年に源頼朝に追われた源義経を匿っていましたが、四代当主の泰衡は頼朝の圧力に屈して、1189年、義経の起居していた衣川館を襲い、義経と妻子を自害へと追いやりました。

 このとき忠臣の弁慶は降り注ぐ矢を受けて仁王立ちのまま息絶えましたが、この故事にちなんでか、鉄器まつりでは“弁慶鉄下駄飛ばし大会”も行われています。弁慶の鉄下駄といえば、五条大橋で若き牛若丸と戦った時に履いていた話が有名ですが、その下駄は、近江の産だろうと思います。ちなみに、清水寺の“弁慶の鉄下駄”は、明治時代に吉野の修験者が奉納したもので、実は弁慶本人とは無関係。そもそも、弁慶が衣川で鉄下駄を履いていたのかどうか…などとくどくど言い出すと、金剛杖で叩かれそうなので、この辺で止しておきましょうか。

 さて、奥州藤原氏の滅亡後、スポンサーを失った鋳物師たちは日常品を細々と作るだけになっていましましたが、室町時代初期、京都聖護院の鋳物師、長田正頼が黒脇千葉家に養子に入り、羽田に到来しました。千葉家は奥州総奉行の葛西氏に召し抱えられ、正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちも羽田に住み、地域に鋳物業が定着します。

 江戸時代に入ると、1629年以降、水沢伊達氏の当地の下、鉄器は庇護を受けて発展し、幕末には大砲も鋳造されました。

 一方、盛岡では、慶長年間(1596-1615年)、盛岡藩主・南部氏の築城の頃から鉄器の鋳造が始まり、やはり、歴代藩主の庇護を受けて発展しました。

 1884年の盛岡大火災では鉄器工場も大きな被害を受けましたが、焼け跡から見つかった鉄瓶をとりあえず使ってみたところ、錆がでなかったことから、これにヒントを得て、以後、内部を備長炭で焼き付ける“金気止め”の手法が使われるようになります。

 1890年に東北本線が開通すると、南部鉄器の販路は飛躍的に拡大。さらに、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に(八代)小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演したことが話題を呼び、全国的に有名になりました。

 さて、伝統的工芸品シリーズの切手は、オーソドックスな黒色の南部鉄瓶と“波に鯉文富士形鉄瓶”の組み合わせで発行されました。

 このうち、富士形の鉄瓶は、山形・米沢方面から馬を買いにきた馬喰が土産として好んで買い求めたことから “米沢富士”とも呼ばれました。銀色なのは砂鉄を原料としているからで、湯が沸くとちんちんという音がします。

 ちなみに、黒色の鉄瓶は、本来、“金気止め”に加え、表面には漆が塗られていますが、そうした処理を省略した大量生産の“鉄製ケトル”なら、1万円以下の手ごろな値段で購入可能です。一方、砂鉄の鉄瓶を買うつもりなら、十万円単位の出費を覚悟しないとならないでしょう。

 なお、鉄瓶は高級品になればなるほど、良質の鉄を使い、持ち手も中空の“くるみ”になって軽くなるので、鉄瓶は重いなどと不用意にいうと、財布の軽さがばれてしまうことになるのでご用心。


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 8歳少女が1500年前の剣を発見
2018-10-06 Sat 14:27
 スウェーデン・ヨンショーピング市のウィーデステン湖で、8歳の少女、サーガ・バネチェクさんが遊んでいたところ、湖の中から発見し、引き抜いた剣が1500年前のモノだったことが確認され、話題になっているそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スウェーデン・剣(1997)

 これは、1975年にスウェーデンが発行した“ヴェンデル時代の遺物”の切手のうち、当時の剣の柄と鞘を取り上げた1枚です。

 現在のスウェーデン国家の領域に人々が定住し始めたのは、石室墓などの発掘結果から、氷河の後退後、紀元前1万-前8000年ごろと推定されています。その後、前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族が定着。ローマ時代には大陸との交易が盛んに行われるようになり、おもに琥珀や毛皮などが輸出されました。紀元後5-6世紀になると、各地で部族国家が形成されはじめましたが、その中でも、ウプランド地方のスベア人は海上貿易にも進出して繫栄。550年以降、いわゆるヴェンデル時代が始まり、スベア人を中心に多くの部族国家が連合し、スウェーデン国家の原型が形成されました。

 ちなみに、いわゆるヴァイキングの時代は、一般に、793年、北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃事件から始まるとされていますので、ヴェンデル時代の後、ということになります。

 さて、今回話題となった剣が発見された当時、ウィーデステン湖の水位は水不足で著しく低くなっており、湖で遊んでいたサーガさんは、「水中で何かに触れたので、持ち上げてみると剣みたいなものがあった」として、父親に報告。父親は「当初、娘が不思議な形をした棒を拾ったのかと思った」そうですが、その後、父親が友人に詳しく調べてほしいと依頼したところ、約1000年前のヴァイキング時代の遺物ではないかということになり、さらに、地元博物館の専門家が調べたところ、約1500年前のヴェンデル時代に作られた可能性が高いと判断されたそうです。

 その後、今回の剣の発見を受け、博物館や地元の自治体らがウィーデステン湖で発掘作業を行ったところ、3世紀に作られたと思われるブローチが出土。発掘作業は現在も継続されており、今後、他にも湖から古代の遺物が見つかる可能性があるそうです。


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 大統領の車が都内で事故
2018-10-05 Fri 01:00
 きのう(4日)、東京・千代田区の路上で、タジキスタンから来日中のエマムアリ・ラフモン大統領(以下、敬称略)の車に、後ろを走っていた随行者の車が追突する事故がありました。この事故で、随行者の車のフロント部分が壊れたものの、大統領を含め、けが人はなかったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      タジキスタン・ラフモン(2006)

 これは、2006年にタジキスタンが発行したラフモンの肖像切手です。なお、ラフモンは、もともとはロシア語風にラフモノフと名乗っていましたが、2007年4月14日、タジク語風のラフモンに改名し、現在に至っています。今回の記事では、とりあえず、2007年以前についても“ラフモン”で行きたいと思います。

 エマモリ・ラフモンは、ソ連時代の1952年10月5日(今日がお誕生日なんですね!)、タジク・ソビエト社会主義共和国のクリャーブ州ダンガル地区ダンガル市(現ハトロン州クリャーブ市)生まれ。ソ連時代は、クリャーブ州ダンガル地区ソフホーズの議長を務めていました。

 旧ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国では、ホジェンド(北西部ソグド州の州都)地方やクリャーブ(南部ハトロン州の東部)地方の出身者が政府と軍の要職を占めており、ゴルノ・バダフシャン自治州のパミール人やガルム地方の民族集団、イスラム勢力などは不遇をかこっていましたが、共産党一党独裁の下、彼らの不満は抑え込まれていました。

 ところが、1991年9月9日、タジキスタン共和国が独立すると、それまで鬱積していたイスラム勢力の不満が一挙に噴出するかたちで、1992年春、当時のラフモン・ナビエフ政権への抗議行動が発生。5月には、政府側の警備兵と反政府勢力の間で戦闘が発生し、いわゆるタジキスタン内戦に突入します。

 ナビエフ政権は野党勢力を取り込んだ連立政権を作ることで事態の収拾を試みましたが、ナビエフくみしやすしと見た反政府勢力の攻撃は収まらず、1992年9月、ナビエフは退陣。このため、混乱の拡大を憂慮したロシアとウズベキスタンが事態収拾に乗り出し、ホジェンド派とクリャーブ派からなる人民戦線を軍事支援。人民戦線は1992年末に反政府勢力を圧倒し、連立政権をも解体して、クリャーブ出身のエマモリ・ラフモンを指導者とする新政権を樹立しました。

 ラフモン政権は反政府勢力の民族浄化を行うなど強硬姿勢で臨み、1993年3月頃までに、国土の大半を掌握。この実績を基に、同年11月19日、タジキスタン共和国最高会議において、最高会議議長に選出されました。ただし、この時点では内戦が完全に終結したわけではなく、大量の難民がアフガニスタンに流入し、タジク野党連合(UTO)を結成し、タジキスタン南部での抵抗を続けました。

 その後、1994年4月以降、国連・ロシア・イランの3者の仲介により、モスクワでラフモン政権とUTOの仲介に和平交渉がはじまり、交渉の進展を受けて、同年11月6日、憲法改正が行われ、ラフモンは正式にタジキスタン共和国大統領に就任。さらに、同年12月16日、国連タジク監視団が創設され、停戦状況の監視と状況の報告、人道支援協力、CIS平和維持軍の協力による警備などを行った。こうした経緯を経て、1997年6月27日、和平協定が成立し、タジキスタン内戦はとりあえず終結しました。

 大統領就任当初のラフモンは、中央アジアの中ではリベラルな指導者として野党に対しても穏健な態度を取っていましたが、次第に独裁傾向を強め、1999年と2003年の2度の憲法改正を通じて2020年まで大統領職に留まることを可能としたうえで、今回も現職大統領として来日。衝突事故に遭ったというわけです。

 * 昨日(4日)のTBSラジオ「たまむすび」で、内藤の出演した「おもしろい大人」のコーナーは、無事に終了いたしました。お聴きいただいた皆様には、あらためてお礼申し云揚げます。なお、放送内容は、11日(木)まで、こちらでもお聴きいただけますので、ぜひ、ご利用ください。 


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 TBSラジオ「たまむすび」
2018-10-04 Thu 00:43
 本日(4日)15:10~15:25、TBSラジオ「たまむすび」の「おもしろい大人」のコーナーに、内藤がゲスト出演します。(番組の詳細はこちらをご覧ください)番組では、この切手もご紹介しながら、切手の雑学あれこれという感じで進めていく予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル・世界最大

 これは、2004年にモンゴルが発行した“平和のマンダラ”の切手のうち、作品の全体像を取り上げた5000トゥグルグ切手です。切手はこの切手と、その部分をトリミングした8枚の切手の9枚のシート構成で発行されましたが、そのうちの、上の画像の切手が135×186 ミリで、現時点では、世界最大の切手として話題となりました。ちなみに、シートの全体像は下の画像のようになっており、左右の余白には、日本語とモンゴル語で“世界最大の切手「平和のマンダラ」モンゴル国から”の文字が入っています。

      モンゴル・世界最大の切手

 切手の題材となった“平和のマンダラ”は、モンゴル民主化後の1994年から始まった“MANDALA 21ST CENTURY”のプロジェクトにより、世界16国・1万人の参加を得て制作されました。70×50メートルという大きさのパッチワーク形式で作られており、“マンダラ”としては世界最大のものです。

 大マンダラの制作は、全体を縦横を9等分・81分割したうえで、各パーツごとに作られたものを、2002年4月に横浜で繋ぎ合わせ、同年12月、広島で広げられました。その後、マンダラは2003年12月にはニューデリーで、2004年3月にはホノルルで広げられています。今回ご紹介の切手は、2004年夏、モンゴルの首都、ウランバートル郊外の“緑の丘”でマンダラが展示されるのに合わせて発行されました。

 なお、仏教用語としてのマンダラ(曼荼羅)は、辞書的にいうと、「密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像」のことですが、“平和のマンダラ”は、釈迦の母、麻耶夫人の懐胎から、釈迦入滅までの一代記を表現したものとなっており、通常の曼荼羅とは意味合いが少し異なっています。

 なお、本日の放送では、このほか、切手の裏糊をめぐる小ネタの話などもご紹介する予定です。ぜひ、お聞きください。


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 ボリビアの悲願、棄却
2018-10-03 Wed 00:50
★★★ 緊急告知!★★★

 あす(4日・木)15:10~15:25 TBSラジオ「たまむすび」に、内藤が出演します。よろしかったら、ぜひお聴きください。
 なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 南米の内陸国ボリビアが悲願とする太平洋への“出口”をめぐり隣国チリに交渉に応じるよう命令を求めていた裁判で、国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)は、1日(現地時間)、ボリビアの訴えを棄却しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・海に出る権利を要求する

 これは、1964年にボリビアからアルゼンチン宛の書留航空便で、左下に、ボリビア国旗に「ボリビアは海に出る権利を要求する」とのスローガンが入ったラベルが貼られています。

 1826年に独立したボリビアは、1879-84年、南米大陸・太平洋岸の硝石地帯をめぐって、ペルーと同盟を結んでチリと戦いました。いわゆる“(南米の)太平洋戦争”です。この戦争に敗れたボリビアは、講和条約として結ばれたバルパライソ条約により、太平洋岸に面したアントファガスタ州をすべて失い、内陸国となりました。

 以後、ボリビアの海運での輸出入貨物は、いったんチリ領となったアントファガスタ港で陸揚げされ、同港でボリビアが管理する保税上屋からチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここでボリビアの税関が通関を行うという手続きが取られています。

 ボリビア国民の中には、現在なお、バルパライソ条約を不当と考え、海を奪ったチリに敵意を持つものが少なくありません。また、ボリビア政府も毎年3月23日を“海の日”に指定し、メディアを動員して「海を取り戻そう」キャンペーンを展開しています。こうしたこともあって、サッカーの試合などでも、ボリビア・サポーターの一部が「海を返せ」といった政治的な横断幕を掲げることもしばしばです。今回ご紹介のカバーのラベルも、こうした社会的背景の下で、ボリビアの主張を国際的にアピールするため、郵便物に貼られたものです。

 今回の裁判は、2013年にボリビアが提訴していたもので、1904年のバルパライソ条約を根拠に掲げ、チリに対し「完全な主権を伴う太平洋への出口をボリビアに付与するため交渉に応じる義務がある」というのがボリビア側の主張です。これに対しチリは、バルパライソ条約に基づき、既に「ボリビアは港湾を自由に商業利用できている」と反論していました。

 このため、ICJは両国間の戦後の外交文書などを検討したうえで、チリには「交渉に応じる義務があるとは結論付けられない」と判断。今回の判決となり、ボリビアの悲願は棄却されることになりました。
 
 なお、ボリビアといえば、1966年以降、チェ・ゲバラが潜入して山中でゲリラ戦を展開し、1967年に逮捕・処刑された国としても有名です。現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そうしたボリビアについて、いろいろな角度からまとめてみました。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ノーベル医学生理学賞に本庶佑氏
2018-10-02 Tue 09:36
 スウェーデンのカロリンスカ医科大は、きのう(1日)、本年度のノーベル医学生理学賞を京都大の本庶佑特別教授と米テキサス大MDアンダーソン癌センターのジェームズ・アリソン教授に贈ると発表しました。本庶氏の功績は、従来、外科手術、放射線、抗癌剤が中心だった癌治療に、「免疫で治す」という第4の道をひらいたというもので、日本のノーベル賞受賞は、2016年の医学生理学賞の大隅良典・東京工業大栄誉教授に続き26人目です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スウェーデン・グスタフ5世70歳

 これは、1928年6月16日、スウェーデンが発行した“国王グスタフ5世70歳”の記念切手です。切手上には表示がありませんが、郵便局の窓口では、額面に対して5オーレの寄付金を上乗せして発売され、その全額が癌研究への助成金にあてられました。これが、切手と“癌”が結びついた最初の事例で、このため、今回ご紹介の切手が(デザイン的には癌とは無関係のため、わかりづらいのですが)“癌切手”の第1号とされています。

 ちなみに、今回受賞した本庶氏らの研究グループは、1992年、免疫の司令塔を担うリンパ球“T細胞”で働く“PD-1”遺伝子を発見。PD-1が免疫反応のブレーキ役に相当することが分かり、ブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する新しいタイプの「癌免疫療法」の開発に結びつけた功績が、今回の受賞につながりました。

 その後、本庶氏の研究を基に癌治療薬の開発が進み、2014年、小野薬品工業が、悪性黒色腫(メラノーマ)の治療薬としてPD-1の抗体医薬“オプジーボ(一般名ニボルマブ)”を発売。この薬は、肺癌や胃癌などでも効果が確認され、現在は60カ国以上で承認されています。


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 ライオンズが10年ぶり優勝
2018-10-01 Mon 00:45
 プロ野球のパシフィック・リーグは、埼玉西武ライオンズが10年ぶり、22度目の優勝を果たしました。というわけで、ライオンにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コンゴ民主共和国・国章(1999)

 これは、1999年にコンゴ民主共和国が発行した切手で、同国の仮の国章が描かれています。

 現在のコンゴ民主共和国の領域はかつてはベルギーの植民地でしたが、1960年にコンゴ共和国として独立。しかし、同年、隣接する旧仏領の国もまったく同名の“コンゴ共和国”として独立したため、両者はそれぞれの首都の名を冠して、旧ベルギー領の国をコンゴ・レオポルドヴィル、旧仏領の国をコンゴ・ブラザヴィルと呼ぶなどして区別されていました。

 旧ベルギー領のコンゴ・レオポルドヴィルでは、1960年の独立当初から(第1次)コンゴ動乱が始まり、各派入り乱れての内戦状態に突入しますが、そうした中で、1964年8月1日、隣国のコンゴ・ブラザヴィルと区別するため、コンゴ・レオポルドヴィルの国名は“(第1)コンゴ民主共和国”に変更されました。

 翌1965年11月、第1次共和国では、国軍参謀総長のモブツが軍事クーデターを起こして大統領に就任します。モブツは独裁体制を確立し、植民地遺制を排除する“ザイール化政策”を展開。自らの名前をジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・セコに改名したほか、首都レオポルドヴィルをキンシャサと改称し、1971年には国号をコンゴ民主共和国からザイールに変更しました。

 モブツ政権は、東西冷戦という国際環境を利用し、アフリカにおける“反共の砦”として西側諸国から巨額の支援を引き出していましたが、海外からの経済支援や国内の鉱山資源などの利益は、モブツとその一族が大半を着服。ザイール国家はモブツ一派の私物化され、経済は衰退します。1965年からモブツが退陣する1997年までの間に、同国のGDPは65%も減少。国民は貧困にあえぎ、中央政府の地方統制も緩んで、反政府勢力は首都キンシャサから離れた東部を拠点に活動を展開するようになりました。
 
 一方、ザイールの隣国ルワンダでは、1994年4月、フツ人過激派によるツチ族大虐殺が始まります。大虐殺は、同年7月に収束しましたが、この間、150万人もの難民が国境を越え、ザイール東部に流入。“難民”の中には、大虐殺の加害者であるフツ人過激派の残党もかなり含まれていましたが、モブツは彼らのルワンダ侵攻計画を支援。このため、ルワンダ政府は対抗上、ザイール東部の難民キャンプの解体、さらには、不安定要因の根源であるモブツ政権の打倒を目指すようになります。

 こうした中、1996年8月、モブツが前立腺癌治療のためスイスの病院に入院すると、その隙を狙って、ルワンダの支援を受けたバニャムレンゲ(1960年以前からザイールに居住していたツチ人とその子孫)の大規模反乱が発生。モブツの長期独裁政権への不満から、ザイール国民が反乱勢力を支持する中、同年10月、人民革命党のローラン・カビラひきいるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始します。さらに、周辺のルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ブルンジもそれぞれの思惑からAFDLを支援し内戦に介入しました。これが、いわゆる第1次コンゴ戦争です。

 混乱の中、モブツは南フランスでの静養を理由に帰国せず、AFDLはザイール全土の約4分の3を制圧。これを受けて、米英仏や国連は調停工作に乗り出し、1997年5月7-8日、ザイール情勢を協議するための“中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議”がガボンで開催されます。ここで、モブツは“健康上の理由”で次期大統領選挙には出馬しないことを約束。同月16日、キンシャサに戻ったモブツは引退を発表し、翌17日、AFDL軍がキンシャサに入城してカビラは“(第2)コンゴ民主共和国”の樹立を宣言し、モブツのザイール共和国は崩壊しました。ただし、現在でも、旧仏領のコンゴ共和国との区別が容易という理由から、コンゴ民主共和国に関しては“旧ザイール”と併記するケースがしばしば見られます。

 今回ご紹介の切手の“国章”は、1997年の第2共和国発足に伴い、旧ザイール時代の国章に変わるものとして制作されたもので、向かい合う2頭のライオンの間に、コンゴ民主共和国を意味する青字に黄色の五芒星の上に乗った歯車と、その中に憲法と銃剣、鍬を組み合わせたデザインとなっています。しかし、2003年、第2共和国憲法が制定されたときには、今回ご紹介の切手のモノとは別の国章が採用されたため、切手の国章は“仮の国章”という位置づけのまま終わっています。

 なお、旧ベルギー領コンゴから独立したコンゴの現代史については、拙著『喜望峰』でもその概略をご説明しているほか、ゲバラの遠征を軸に、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 マケドニアで国名改称の国民投票
2018-09-30 Sun 01:39
 旧ユーゴスラビア構成国のマケドニアで、きょう(30日)、国名問題で長年対立していた隣国ギリシャと合意した“北マケドニア共和国”への改称について、国民投票が実施されます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      マケドニア加刷(1944)

 これは、1944年、ドイツ占領下で発行された“マケドニア”加刷切手です。国名表示が“マケドニア”となっている切手としては、これが最初の1枚となります。

 現在のマケドニア共和国は、旧ユーゴスラヴィア連邦を構成していたマケドニア(社会主義)共和国が連邦から分離・独立するかたちで誕生しましたが、本来の地域概念でいう“マケドニア”の範囲は、古代のアレクサンダー大王の故地として、同国のみならず、ギリシャ、ブルガリアの3国にまたがり、さらに、アルバニア領マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド、コソヴォ領ゴーラ、セルビア領プロホル・プチニスキをも含むものとされています。

 このため、広義のマケドニアの領域をめぐっては、歴史的にギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの3国が領有権を主張してきましたが、第二次大戦中の1941年4月19日、枢軸陣営に参加していたブルガリアはマケドニアの大部分とセルビア東部の一部地方を占領。これらの土地はギリシャ領マケドニアおよび西部トラキアとともに5月14日にブルガリアの領土に編入されます。

 1942年以降、独ソ戦の戦局は次第にドイツ不利に傾き、ブルガリア国内でも連合国との講和を求める世論が高まったため、1943年春、ブルガリアは米国との和平交渉を開始。しかし、ブルガリアの無条件降伏を求める米国に対して、ブルガリアはヴァルダル・マケドニアと南ドブルジャを含む領土に固執したため交渉は決裂します。

 こうした中で、1944年1月以降、米英によるブルガリア空爆が開始。ブルガリアはソ連に米英との仲介を依頼したものの、9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦布告し、領土内への侵攻します。こうした中で、9月9日には左派のクーデターが発生し、ブルガリアはドイツに宣戦布告しますが、これに対して、ドイツ軍はブルガリア軍の5個師団から成る第1占領軍団と第5軍を武装解除しました。

 今回ご紹介の切手は、その過程で、1944年9月8日から11月13日まで、ドイツ占領下のマケドニア地域でブルガリア切手を接収して、“マケドニア”の地名を加刷して発行されたものです。なお、現代のマケドニア国家に相当する地域は、1945年にはユーゴスラヴィアに統合されています。

 さて、広義のマケドニアのうち、現在の国境でいうと、南部の面積にして約50%がギリシャ領であり(ちなみに、マケドニア共和国の領域は広義のマケドニアの北西部の約40%です)、中心都市がギリシャのテッサロニキであることにくわえ、古代マケドニア王国がギリシャ系の国であったのに対して、現在のマケドニア共和国の多数派民族がスラブ系であることもあり、ギリシャ側は、本来のマケドニアはギリシャであると主張。マケドニア共和国に対して“マケドニア”の国名を変更するように求め続けていました。

 特に、1993年の国連加盟申請の際には、ギリシャの強い反発により、マケドニア共和国は“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”という暫定名で加盟するということで妥協が図られました。しかし、これに納得しないギリシャは、1994年2月にマケドニアに対する経済封鎖を実施。海を持たない内陸のマケドニア共和国は大きな打撃を受け、国旗のデザインを変更(1991年の独立時に定められた国旗は、古代マケドニアのヴェルギナの星を用いていました)するとともに、憲法を改正してギリシャ領のマケドニアに対する領土的野心がないことを明言するなどして、1995年に経済制裁を解除させています。

 しかし、その後も、ギリシャは“マケドニア”の国名変更を求め、マケドニア共和国がこれに抵抗するという構図の下、EUやNATOへの加盟も国名問題の解決までは保留という状態が続いてきました。

 こうした中で、2017年にマケドニアでゾラン・ザエフ政権が発足すると、同政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。2018年1月には両国の外相会談で国名改称に向けた作業部会の設置が決定され、翌2月、北マケドニア共和国、上マケドニア共和国、ヴァルダル・マケドニア共和国、マケドニア・スコピエ共和国の4案が提案されました。そして、2018年6月12日、マケドニアが国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立。今回の国民投票はこれを受けて実施されるものです。

 ただし、マケドニアの国内法では、国名改称には、国民投票で有効投票の過半数の賛成を得ることが必要とされているものの、最大野党のマケドニア社会民主同盟が合意を非難しているほか、ジョルゲ・イヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明しており、改称が実現されるかどうかは微妙な情勢と見られています。

 ちなみに、わが国の外務省は、国連加盟の国名に倣い“マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国”を正式名称としており、“マケドニア共和国”との呼称は認めていません。ただし、メディアでは、この正式名称ではなく、“マケドニア(共和国)”ないしは“旧ユーゴ・マケドニア共和国”などと呼ばれることが多いようです。ただし、在京のギリシャ大使館がそのたびに抗議をしているかどうかは定かではありませんが…。


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 ミュンヘン協定80年
2018-09-29 Sat 01:28
 第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型とされるミュンヘン協定が1938年9月29日付で調印されてから、今日(29日)でちょうど80周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハンガリー・チェコスロヴァキアからの失地回復

 これは、1938年、ミュンヘン協定に伴い、第一次大戦後、チェコスロヴァキアに割譲した失地を回復したことを記念して発行した切手で、ハンガリー王国の象徴としての“イシュトバーンの王冠”の切手に、記念の文字が加刷されています。

 第一次大戦でのオーストリア=ハンガリー二重帝国の敗北が避けられなくなった1918年10月28日、チェコスロヴァキアが分離独立を宣言。これに対して、10月31日にブダペストでも暴動が発生し、11月16日にハンガリー第一共和国が樹立され、ハプスブルク帝国は崩壊します。

 1920年6月、ハンガリーと戦勝国の講和条約としてトリアノン条約が締結され、ハンガリーは主権を回復しましたが、周辺諸国に領土の3分の2を割譲。その過程で、同年3月1日、ハンガリー国民議会(共和国議会から改称)は、二重帝国時代の領土の正統性を主張するため、“聖イシュトヴァーンの王冠の地”を統治する権利を有する国として、“ハンガリー王国”の成立を宣言しました。ただし、同国は国王が空位の“国王なき王国”でした。

 ハンガリー王国は、1930年代以降、世界恐慌の中で、ヴェルサイユ体制の打破を唱えるナチス・ドイツがいち早く経済危機を脱して国力を充実させると、領土回復の好機ととらえてドイツに接近。こうした背景の下、いわゆるズデーテン問題が浮上します。

 現在のチェコ共和国の外縁部にあたるズデーテン地方は、チェコ人の支配するボヘミア王国の時代の東方植民以来、ドイツ系住民の多い地域になっていました。その後、ハプスブルク家の支配を経て、1918年、チェコスロヴァキアが独立を宣言すると、ズデーテン地方の帰属をめぐっては、チェコスロヴァキア政府が同政府による実効支配の追認を求めたのに対して、ドイツ系住民がチェコスロヴァキアへの編入に強く反対。ヴェルサイユ講和会議では、米国が民族自決の観点からドイツへの編入を主張したのに対し、フランスは安全保障の観点からチェコスロヴェキアの強化を主張。最終的に、フランスの主張通り、ハプスブルク帝国解体後の戦後処理を定めたサン・ジェルマン条約によって、ズデーテン地方はチェコスロヴァキア領となり、310万人のドイツ系住民はチェコスロヴァキアにおける“最大の少数民族”となりました。

 これを不満とするズデーテン地方のドイツ系住民の一部は、ズデーテンの自治権を要求。さらに、隣国のドイツがナチス政権下で経済恐慌から脱して経済力を回復すると、コンラート・ヘンラインらのズデーテン・ドイツ人党は、「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を目標に掲げ、ドイツの支援を要請します。

 これを受けて、ヒトラーも“ズデーテン問題の解決”を訴えるようになり、1938年3月の独墺合邦後、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などとチェコスロヴァキアを恫喝し、欧州内では、ヒトラーが対チェコスロバキア宣戦を行うという観測が強まりました。このため、1938年9月29-30日にいわゆるミュンヘン会談が行われ、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日にはドイツによる軍政が施行されました。

 ミュンヘン会談を失地回復の好機ととらえたハンガリーは、スロヴァキアとカルパティア・ルテニアの“返還”をチェコスロヴァキアに要求します。しかし、ドイツがズデーテン地方を獲得したのに対して、ハンガリーの要求は住民投票によるとされたため、ハンガリーは軍を動員して圧力をかけ、11月2日、カルパティア・ルテニアとスロヴァキア南部の割譲を合意させました。今回ご紹介の切手はこれを記念して発行されたものです。

 なお、ミュンヘン会談の前後、ヒトラーは「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と繰り返していましたが、実際には、1939年3月、チェコスロヴァキア国家は解体され、ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)を設置。ハンガリーはカルパト・ウクライナに侵攻し、同全土を占領、併合しました。 


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 世界の切手:コート・ディヴォワール
2018-09-28 Fri 00:31
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年8月29日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はコートディヴォワール(と一部トーゴ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      コート・デイヴォワール・ボワニ大統領追悼

 これは、1994年に発行された初代大統領、ウーフェ=ボワニの追悼切手シートで、左から、①コート・ディヴォワールの建設者(建国の父)、②農民の大統領、③平和と信仰の人、という3つの点から彼を讃える切手が収められています。

 1960年のコート・ディヴォワール独立とともに、初代大統領に就任したウーフェ=ボワニは、外交的には、親仏・親西側の立場を明確にするとともに、権威主義体制の下で経済成長を目指す開発独裁体制を志向していました。

 たとえば、コート・ディヴォワール民主党(PDCI)による一党独裁体制の下、1963年には共産主義者が粛清され、翌1964年には前最高裁長官のボカが大統領暗殺計画に関与していたとして自殺に追い込まれています。PDCIは、①国家統一・一体化、②社会正義、③寛容・友愛、④安定、⑤対話・平和、⑥イヴォワール人の幸福達成、を基本理想とし、これを“ウーフェ主義”と命名。副大統領の制度はあっても任命されず、国会議長の権限も徐々に縮小されました。

 一方、経済的には、主要産業であるカカオをはじめ、コーヒー、木材、パーム、綿花、ゴムなどの生産と輸出を国家が管理する体制を構築。アパルトヘイトには反対するものの、南アフリカ共和国との対話や経済関係も否定しない独自路線を採ることで、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、その国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、1980年代以降、カカオの国際相場の下落により、経済は徐々に悪化していきます。さらに、生活の向上した国民の間には、PDCIの一党独裁に対する不満も高まりました。

 このため、1990年10月、初めて複数候補による大統領選が実施。このときはウーフェ=ボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イヴォワール人民戦線(FPI)など野党もわずかだが初議席を獲得しています。

 ウーフェ=ボワニは大統領在任中の1993年、現職のまま亡くなったため、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しましたが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生し、2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦が勃発しました。こうして、“イヴォワールの奇跡”と謳われた往時の繁栄は完全に霧消しました。

 さて、『世界の切手コレクション』8月29日号の「世界の国々」では、コート・ディヴォワール近現代史についての長文コラムのほか、第一次内戦後の国連の平和維持部隊のカバー、同国を象徴する動物としてのゾウ、主要産業のカカオの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のコートディヴォワール(と一部トーゴ)の次は、9月12日発売の同19日号でのマリ(と一部タンザニア)の特集、9月19日発売の同26日号でのコスタリカ(と一部ニカラグア)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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